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「六角定頼」細川政権に大きく関与し、六角氏の全盛期を築く!

六角定頼は南近江の守護大名として細川政権の抗争に大きく関わり、のちに細川晴元の義父となって幕政にも影響を及ぼした人物である。 なお、楽市・楽座は織田信長の経済政策としてよく知られているが、楽市令をはじめて発布したのは定頼なのだ。本記事ではそんな彼の生涯を追っていく。

誕生と家督継承

定頼は明応4年(1495年)、近江国の守護大名であった六角高頼の二男として産まれた。

当時の武家社会では長男以外は仏門に入ることが非常に一般的で定頼も永正元年(1504年)に京都にある相国寺慈照院に僧侶として入り、僧侶として修業を重ねていた。しかし、兄である六角氏綱が永正3年(1506年)に細川家との戦いで重傷を負うと定頼の環境は一変する。その影響で永正15年(1518年)に兄氏綱が死亡すると、定頼は還俗して氏綱の跡を継ぐ形で六角家を相続することになる。

この時の六角家は、高頼と氏綱の活躍により、近江国内の反乱分子はあらかた抑えられており、定頼は安定して近江を統治できるとともに幕府の抗争に介入するようになっていく。

幕府抗争への介入

定頼が家督を継いだ当時、細川澄元細川高国による細川宗家の家督争いの真っただ中であり、室町幕府の政局は混迷を極めていた。こうした情勢下、定頼は高国方に立って幕府内の内乱に介入する。永正17年(1520年)5月5日に発生した等持院の戦いでは、澄元方の三好長秀を討ち取る大功を挙げており、大永7年(1527年)10月から始まった川勝寺口の戦いでも主力として高国方に参戦し、澄元の遺児・細川晴元の軍勢と戦っている。

いずれの戦いも、定頼は高国を自領・近江坂本に迎え入れており、彼を厚く援助した。これら定頼の支援により、高国は享禄4年(1531年)大物崩れで戦死するまで、何度も敗れてもすぐ再挙を図ることができたのである。

本願寺勢力との戦い

高国死後も、高国派だった定頼の立場が悪くなることはなかった。なぜなら、晴元は高国派の現将軍・足利義晴と和睦しようとし、自らが擁立していた堺公方(=足利義維のこと)を将軍職に就けようとせず、ないがしろにしたからである。

そして、この政策方針に異論を唱えた三好元長畠山義堯に対し、晴元は天文元年(1532年)6月に本願寺の一向一揆を扇動して討ち取ってしまう。しかし、一揆勢がその後も興福寺や春日大社を攻撃するなど暴走を始めた。このような中、一向宗と対立する法華宗が蜂起すると、晴元は手のひらを返すように一向一揆攻めに転換する。
同年8月、定頼は晴元の尻拭いのために京都へ出陣して法華宗とともに一揆軍を攻撃、最終的には一向宗の総本山であった山科本願寺を攻囲して10月までに一向一揆を鎮圧。(山科本願寺の戦い
定頼は京都に平穏をもたらしたのである。

六角家の最盛期を築く

これらの軍功によって発言力を強めた定頼は、晴元に自分の娘を嫁がせて幕府内の立場を強化する。これにより、定頼は足利将軍家の後見人として幕政に介入できるようになった。なお、天文15年(1546年)12月には、将軍義晴が近江坂本で嫡男の足利義輝を元服させて将軍職を譲っているが、同時に定頼が管領代に任じられ、本来は管領が行うべき烏帽子親を務めている。

天文18年(1549年)江口の戦いでは、定頼は援軍として戦地に向かうものの、間に合わなかった。まもなく到着というところで主君晴元に背いた三好長慶軍により、味方の三好政長が討たれ、晴元方の敗戦となった。その後、晴元や将軍義晴・義輝父子を近江坂本で保護している。
なお、同年に居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を発布しており、これが楽市・楽座の史料上の初見とされている。

定頼は中央での活躍もさることながら、一方で近江国内でも勢力を伸ばしていった。北近江を・浅井氏が浅井久政の代のとき、徐々に攻め込んで最終的に従属下に置くことに成功している。

こうして六角家の最盛期を築き上げ、天文21年(1552年)正月に大往生を遂げた。享年58。





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