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「長良川の戦い」斉藤家の骨肉の争いで道三死す!
──弘治2年(1556年)

長良川の戦いは、斎藤道三・義龍父子の間において美濃国の長良川で行われ、敗れた道三が討ち取られた合戦で知られる。

長良川の戦い(ながらがわのたたかい)
  • 時期:1556年(弘治2年4月)
  • 場所:美濃国長良川

斎藤義龍

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背景・いきさつ

主君の土岐頼芸を追放して美濃国主となった斎藤道三は、1554年(天文23年)には嫡男・義龍に国を譲って隠居。
しかし、道三は長男・義龍を愚か者と思い込み、次男・孫四郎と三男・喜平次を偏愛するようになっていった。三男の喜平次を「一色右兵衛大輔」にするなど、やすやすと官位を昇進させたため、弟2人は図に乗って奢り高ぶり、長男の義龍をないがしろに扱ったという(『信長公記』)。
そのことを無念に思った義龍は、1555年(弘治元年10月)には仮病をつかって奥へと引きこもって寝ていることにした。

弘治同年11月22日、道三が稲葉山下の私邸に出向いた隙に義龍、弟2人のもとに叔父の長井道利を遣わせ「自分は重病で先は長くない。対面して一言申し上げたいことがあるので、おいで願いたい」と伝え、道利がうまく口添えをしたため、弟たちは承知して義龍のところへ出向いてくる。
長井道利は一計を図り、まず次の間で道利が刀を置き、それを見た弟二人も同様に刀を置いた。そして奥の間に入れて酒を振る舞い、その間に寵臣の日根野弘就(ひねの ひろなり)が切れ味名高い大刀を抜き、上座にいた孫四郎を切り伏せ、続いて喜平次を切り殺してしまうのであった。

二人の弟を謀殺して長年のうっぷんを晴らした義龍は山下にいる道三に使者を送り、事の次第を道三に伝えた。このとき、道三は仰天して即刻軍勢を集めて城下の町を焼き払い、稲葉山城を丸裸にしたという。そして火煙に紛れて城下から逃れると、長良川を超えて山県の大桑城にまで逃れ、その年はそのまま暮れた。
明くる年の雪解けとともに情勢は緊迫し、1556年(弘治2年)の春にはついに両者は決戦を決意して骨肉相争う事態となるのであった。

経過

弘治同年4月18日、道三は鶴山へ登って陣を構えると、娘婿の織田信長もこれに呼応して、木曽川・飛騨川を舟で越えて大良(岐阜県羽島市)の戸島、東蔵坊に進出してここに陣所を構えた。

4月20日、辰の刻に義龍軍が長良川南岸に動いたのに応じ、道三軍も鶴山を下りて長良川まで軍勢を動かして北岸に移動。ここで両者は激突。

義龍の軍勢が17500余名に対し、道三の軍勢はわずか2700余名。道三が国主となるまでの経緯もあり、思うように兵が集まらず、重臣の西美濃三人衆をはじめとした家中の大半が義龍を支持したとしている。

緒戦は義龍軍の竹腰重直(たけこし しげなお)の隊600程が丸くなって長良川を押し渡り、道三の旗本に切りかかった。 乱戦となったが、道三の指揮で竹腰勢は敗走し、道三旗本により重直は討ち取られた。
それを見た義龍は自ら旗本を率いて川を越えて、両軍がお互いに陣を整えて対峙。この時、義龍勢の中から長屋甚右衛門という者が一騎討ちを挑み、道三の軍勢からは柴田角内という者がそれに応じ、両者の一騎打ちが始まった。

勝負は柴田が長屋の首を挙げたことにより決すると、両軍とも突撃し、乱戦に突入。道三は緒戦こそ優勢に戦いを進めるも兵力差は如何ともしがたく、ついに道三の前に義龍勢が押し寄せてくる。
長井忠左衛門が道三の打ちおろす大刀を押し上げて組みつき、生け捕りにしようとしていたところ、荒武者の小牧源太(こまき げんた)が道三の脛(すね)を薙ぎ払い、道三の首を切り落とした。

これに忠左衛門は激怒したが、のちの証拠として道三の鼻を削いで行った。こうして道三は戦死して合戦は幕を閉じるのであった。

その後、義龍は道三の首実検を済ませ、織田勢の陣所がある大良方面へ軍勢を向かわた。
織田の軍勢も出陣して足軽合戦が開始されるが、道三が打ち取られた報を聞いた織田勢は撤退を開始。斎藤軍はこれを追撃するが、信長は自ら殿(しんがり)を努め、最新の鉄砲を使って追撃を振り切り、その日のうちに撤退した。





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