丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「龍造寺隆信」大友氏の弱体化を機に勢力拡大するも・・

龍造寺隆信の肖像画
大内義隆と手を結び、かつての主君であった少弐冬尚を滅ぼし勢力拡大を行った龍造寺隆信。大友氏との激戦となった今山の戦いを家臣・鍋島直茂の夜襲進言により退けその後勢力を拡大し続けるも沖田畷の戦いで命を落とした。彼の激しい戦いの人生とは?

戦国の常、下克上から始まる龍造寺隆信の戦の歴史

龍造寺隆信の人生は正に戦国の世そのものだ。祖父と父が主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ誅殺される。曽祖父の遺言により水ヶ江龍造寺の家督を受け継いだ隆信は天文16年(1547年)、龍造寺の当主・胤栄に従いかつての主君である少弐冬尚を攻め追放する事に成功する。その翌年、天文17年(1548年)に胤栄が亡くなった為、本家の家督も相続した。 家督相続を巡っては家臣からの不満があった為、隆信はその不満を押し付ける為に大内義隆と手を結んだ。しかし天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により死去すると後ろ盾を失った隆信はまたしても下克上の憂き目に遭う。肥前を追われ、筑後に逃れた隆信は天文22年(1553年)再び挙兵し肥前を取り戻すことに成功する。永禄2年(1559年)にはかつての主君であった少弐冬尚を自害に追い込んで大名としての少弐氏を完全に滅ぼした後は勢力を拡大していく事になる。

大友宗麟との激戦、今山の戦い

勢力を拡大し続けていた隆信に脅威を感じた大友宗麟は元亀元年(1570年)の4月、隆信を討伐するために兵を率いて龍造寺領に攻め込んだ。(今山の戦い)

局地戦という条件ながら同年の8月20日に行われた激戦は有名である。宗麟は4月から始まった戦の勝利の報告が8月になっても未だに為されていない事に業を煮やし、弟の大友親貞を3千の兵で前線に送り出して総攻撃命令を下した。親貞は8月20日をもって佐嘉城に総攻撃を開始することを決定するが、総攻撃の前日の夜に親貞は今山の本陣で勝利の前祝いとして酒宴を開き軍の士気を緩めてしまう。この動きを知った鍋島直茂は敵本陣への夜襲を進言する。 夜襲の許可が下った直茂以下五百余りの奇襲部隊は19日夜から20日の未明、鉄砲を撃ちかけ敵陣を大混乱に陥れる。混乱の合間を縫い親貞を討ち取る事に成功した。

9月末には、龍造寺隆信側から講和の申し出をしている。局地戦であった今回の戦では肥前における大友氏の支配を揺るがす事ができなかった為である。講和は10月1日に、隆信の弟である信周を人質に差し出す事によって大友側に受諾された。局地戦であるが故に大友氏の支配を揺るがす事はできなかったが、この戦の勝利によって隆信は更に勢力を拡大する事に力を注ぐ。その結果、大友宗麟や島津義久と並び称され九州三強とまで呼ばれていくようになっていく。

下克上を生きた隆信の壮絶な最期

天正6年(1578年)に大友宗麟は日向に南征し、島津義久に大敗する(耳川の戦い)事になる。その結果、大友宗麟は九州三強の地位から脱落していく。九州の覇権は大友宗麟に勝利した島津家と龍造寺家で争っていく事になる。

天正9年(1581年)に島津家が肥後に北上すると、龍造寺家も隆信の嫡男・政家と義兄弟の鍋島信生を派遣して島津を下し、肥後北部の山本郡の内古閑鎮房も降伏させることに成功する。このため肥後北部は龍造寺家に支配される事になるが、隆信は一方で筑後柳川の蒲池鎮並一族を殺害させるなどした。この行為は謀反を引き起こし、隆信に背くものが出る結果となった。これが沖田畷の戦いに至るまでの経緯である。

天正12年(1584年)の3月19日、先の隆信の蛮行に対しての造反で有馬晴信が謀反を起こしたと知った隆信は挙兵。同20日には島原半島に上陸した。有馬晴信は島津に援軍を要請し島津もこれに応えたが、大友家が頭上に控えている為に主力を送るわけにはいかず5千にも満たない数だった。兵力は比べるまでも無く隆信側が圧倒的に勝っていた。 数の不利を承知していた有馬晴信、島津の連合軍は「畷(なわて)」を決戦の地とすることを決定する。畷とはまっすぐな長い道の意味であり、沖田畷とは当時の島原の広大な湿地を縦断するように作られた長い道の事である。ここに隆信率いる龍造寺軍を引寄せ身動きが取れなくなった所で殲滅しようとした。

対して隆信は自身と相手の兵力差が歴然としていた事に勝利を確信し慢心していた。そのような状況の中、24日未明に合戦の火蓋が切って落とされた。数に慢心していた龍造寺軍は畷の中で身動きが取れなくなってしまった。隆信は伝令を知らせる使者に戦況を確認するように命令を出していたが、この使者が命を惜しまず進むようにと隆信の命令に無い事を触れて回った為に無謀な攻撃を仕掛け続け、次々と島津側の弓と鉄砲により敗れていった。一説によるとこの使者の命令は隆信本人が激怒して出したものであるとされているが定かではない。同日、未の初刻(午後2時)隆信は島津側に見つかり首をはねられ絶命し、戦は有馬晴信・島津の連合軍が勝利した。この大勝により島津が九州の覇権を握るに至り、龍造寺は傘下にあった者達の多くが島津に寝返った為、勢力を大きく後退させることになった。龍造寺隆信は下克上の時代に生まれ下克上を常として生き、そして下克上に敗れていった。





おすすめの記事

 PAGE TOP