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「伊東義祐」島津氏の勢いに敗れ、本拠の日向国を捨てるハメに。

伊東義祐の肖像画
伊東義祐は、九州で活躍した島津氏や大友氏らの戦国武将に比べると、伊東家を滅亡させた当主だけに評価は低いかも知れない。しかし、名門伊東家の最盛期を現出させた、九州戦国史の立役者のひとりである。その波乱の生涯をみていこう。

宿敵島津から飫肥城を奪った全盛期

伊東義祐(よしすけ)は永正9年(1519年)、現在の宮崎県にあたる日向国で戦国大名伊東家に生まれた。少年時代からその生涯は波乱の連続で、家督を継いでいた兄が若くして亡くなると、家臣団を巻き込んだお家騒動が勃発。家中を二分した叔父との戦いを制し、最終的に天文5年(1536年)7月に、弱冠18歳で伊東家の当主となった。

伊東家は北の豊後大友氏と、南の薩摩島津氏に挟まれる形で戦国時代を過ごしている。特に島津氏とは宿敵と言っていい関係で、義祐の時代を含め100年に渡って抗争を繰り広げた。両家最大の抗争の場となったのが飫肥城で、飫肥(おび)の地を巡って戦われた両者の対決は、実に十余度を数え、有名な川中島の合戦より多い。繰り返された飫肥城を巡る戦いは、永禄12年(1569年)に至って伊東家が島津氏を破り、念願の領地化に成功する。伊東家の領土は過去最大となり、多くの城を拠点に国人領主を支配下に置いたことから「伊東四十八城」と呼ばれる全盛期が訪れた。この時、義祐は50歳の齢を越えていた。年齢の故か、次第に当主としての統率力を失い、奢侈な生活に浸っていったと言われている。

伊東家の衰退

転落の転機は早かった。新しく島津方との境界の地となった真幸院(まさきいん)を巡る抗争で、地元領主北原氏の家督継承に介入するも失敗。島津の猛将義弘と繰り返し衝突するが戦果は芳しくなく、家督を譲っていた息子の伊東義益が永禄12年(1569年)に突然病死した影響もあって、家中の支配力に陰りが見え始めていった。決定打は元亀3年(1572年)の木崎原の戦いである。義祐率いる3千人の伊東軍は、島津義弘のわずか3百の手勢に木崎原(きざきばる)で大敗北を喫する。伊東祐安、伊東祐信ら一族のほか、落合兼置、米良重方といった重臣が討ち死にし、伊東家の衰退は明らかになった。

徐々に島津方に境界線を押し戻されていった伊東家だったが、義祐は譜代家臣たちの諫言に耳を貸さず、伊東帰雲斎ら寵臣ばかりを優遇して無為に時を過ごした。天正5年(1577年)には飫肥城南方の櫛間城が奪われ、続けて飫肥城が包囲されてしまう。城主だった三男の祐兵(すけたけ、すけたか)も多勢に無勢でいかんともしがたく、城を脱出し父の元に逃げ帰る有様だった。

逃避行「伊東崩れ」

家臣や一族に続々と離反者が相次ぎ、伊東家の崩壊は誰の目にも明らかだった。島津氏に抗戦しようにも術がないと悟った義祐と祐兵は、親類筋にあたる豊後の大友氏を頼りに、父祖代々の地日向を去ると決めたのである。天正5年(1577年)12月の冬本番の季節で、義祐たち主従は着の身着のままに近い格好で豊後へと落ちていった。この伊東家崩壊の一連の出来事を、「伊東崩れ」と呼んでいる。

豊後への逃避行は、非常に厳しいものだったと伝わっている。かつて伊東四十八城と呼ばれた勢威はどこにもなく、わずか百数十名の供回りで国境の山中に分け入り、寒さと敵の追跡、絶望による切腹などで、無事豊後の大名大友宗麟の元に辿り着けたのは半数ほどだった。逃亡中に最も信頼していた家臣の離反を聞き、義祐自身切腹しようとして家臣たちに押し止められたという。 ちなみに、この一行の中に伊東家一族の少年がおり、長じて天正遣欧使節のひとり伊東マンショとなる。

耳川での戦いと義祐の死

義祐と祐兵たちの亡命を受け入れた大友宗麟は、伊東家再興を名目に島津氏と対決することになった。両家は伊東崩れの翌年、天正6年(1578年)に日向の地を舞台に大兵力で激突する。両勢力合わせて5万とも7万とも言われる耳川の戦いは、11月12日に島津氏の圧勝で決着し、大友方の兵の多くが耳川で溺死した。

島津氏はこの勝利をきっかけに大友氏を圧倒し、瞬く間に九州全域を制圧していく。結局は豊臣秀吉の九州攻めを受けて敗北し、元の領地薩摩に押し込められるのだが、義祐がそれを見届けることはなかった。 義祐と祐兵は敗北した大友氏の元にいられなくなり、伊予の河野氏を頼り、そこにも長居できずにさらに播磨へと移っていく。縁者の伝手で祐兵はなんとか羽柴秀吉に仕え大坂堺に屋敷を持ったが、義祐は誰に仕える事もなく、一説には瀬戸内を旅して暮らしたという。天正13年(1585年)8月、病を得て息子のいる堺で死去、73歳だった。伊東崩れから8年後で、秀吉の九州攻めの2年前のことだった。

一度は滅亡した伊東家は、祐兵によって再興される。秀吉の元にいた祐兵は、九州攻めに従軍。島津氏の領地になっていた日向を10年ぶりに取り戻して、小藩ながら大名に復活したのである。本拠は飫肥城で、関ヶ原の合戦を徳川家康の東軍に付いて生き残り、国替え無くこの地で明治まで続いた。祐兵は伊東家中興の祖と呼ばれている。





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