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「大友義統」豊臣・徳川の世で改易・幽閉・流罪!?

大友義統の肖像画
大友家第22代当主である大友義統は、戦国時代から安土桃山時代にかけて生きた武将である。彼の生涯は大きく3つのステージに分けることができる。ここでは「生誕から島津家との戦い」「豊臣家の家臣時代」「関ヶ原の戦い以降」に分けて紹介する。

生誕から島津家との戦いまで

大友義統は戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後地方の武将であり、1558年に大友宗麟の子として誕生した。幼名は長寿丸と名乗ったが、室町将軍・足利義昭の偏諱を受け義統と名乗ることになる。1576年に大友宗麟が隠居したのをきっかけに、大友家の家督を継ぎ第22代当主となった。しかしながら大友家の実権は依然として大友宗麟が握っていたため、父との対立が表面化することにもなる。 その頃(1570年代後半)の九州では、大友家と島津家が九州制覇を狙っていた。中でも有名なのが日向高城川原(現在の宮崎県木城町)を主戦場とした「耳川の戦い」(1578年)である。ところが大友家は耳川の戦いで大敗を喫してしまい、これをきっかけとして家臣団の分裂が始まってしまう。更に父・大友宗麟との二頭政治にも弊害が出るようになり、大友家の内紛はますます過熱することとなった。 そのような折、有力庶家である田原親貫や田北紹鉄が相次いで反乱を起こし、更に大友家の重臣・立花道雪が病没してしまうと、肥後方面を押さえていた志賀家とも疎遠となってしまった。かつては大友家の版図であった肥後・筑後・筑前は、次第に肥前の龍造寺氏や薩摩の島津氏の勢力に侵食されるようになっていく。特に九州制覇を狙う島津家の攻撃が激しくなると、大友家は滅亡寸前の危機に立たされてしまう。 1586年には島津義久による豊後侵攻が始まると、大友家への忠誠心を失った家臣たちは次々と離反することとなる。更には岩屋城の戦いで家臣の高橋紹運が戦死すると、ますます大友家は窮地に立たされてしまう。 追い込まれた大友宗麟は、豊臣秀吉に援軍を出してもらうように嘆願する。最初は戸次川の戦いで大敗してしまうが、秀吉は九州征伐で島津義久軍を降伏させることに成功する。このときに大友義統は秀吉に忠誠を誓い、豊後一国と豊前の宇佐郡半郡併せて37万石を安堵された。

豊臣家に忠誠を誓う

1587年に父・大友宗麟が死去すると、翌1588年大友義統は豊臣秀吉に謁見するため上洛する。そこで秀吉に気に入られたとされ、秀吉から偏諱を与えられ義統から「吉統」と改名した。北条氏を攻めた1590年の小田原征伐では、吉統は豊臣軍の一員として参戦している。更に1592年の文禄の役では黒田長政勢と共に従軍して朝鮮に渡った。 ところが翌1593年、平壌城の戦いで明の大軍に包囲されていた小西行長からの援軍要請に対して、行長が戦死したという誤報を信じてしまい撤退してしまう。実際には小西行長は自力で脱出に成功しており、吉統は援軍要請を無視して戦場を放棄した形となってしまったのだ。この一連の行為に対して秀吉は激怒し、情報力の欠如を咎められあっさりとリストラされてしまう。5月1日には改易処分を受け、大友領であった豊後一国と豊前の宇佐半郡は豊臣家の直割地となり、のちに豊臣家の奉行等の領地となる。吉統自身は剃髪して宗厳を号すことになる。改易の後は、徳川氏・佐竹氏・毛利氏などの有力大名に身柄を預けられて幽閉状態となる。一方で家臣たちは大友家の再興を願いつつ、他家に雇われて世をしのぐこととなった。

関ヶ原の戦いから晩年まで

1598年に豊臣秀吉が死去すると、翌年までにはそれまでの罪が許されて幽閉状態が解除される。解除後は大坂に屋敷を構え、豊臣秀頼に従った。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍として参戦する。西軍の総大将毛利輝元の支援を受けて、広島城から出陣し元の領国である豊後国に侵攻した。田原氏・吉弘氏・宗像氏といったかつての家臣たちが諸国より次々と合流し、大友軍が再結成された。こうして勢いにのった大友軍は、豊後に上陸して国東半島の諸城を下すことに成功する。 しかし勢いは長く続かず、9月の石垣原の戦いで豊前の黒田如水と細川忠興らの連合軍に敗れてしまう。この戦いで吉統は東軍の細川忠興の領であった豊後の杵築城を攻めたことから、徳川家康に恨まれ咎めを受けることとなった。吉統は出羽の秋田実季預かりとなる。その後、秋田実季の転封に伴って常陸国宍戸への流罪となる。流刑地での大友家の様子を「大友家文書録」にまとめてあるが、これが没落した大名家について詳細を知ることができる貴重な史料となっている。吉統は失意のまま、1610年に53歳で死去した。 その後の大友家は吉統の子・義乗(早くより父・吉統のもとを離れていたので連座されなかった)が旗本として徳川家に召抱えられ名家として続くこととなる。 大友吉統は酒癖の悪い人物として有名で、宣教師の資料に「過度の飲酒癖やそれによる乱行が多い」と記されているといわれている。本人も酒癖の悪さを自覚していていたらしく、「酒を飲むな」など公私にわたり21ヶ条の家訓を子・義乗に残しているという。





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