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「陶晴賢(隆房)」クーデターで大内氏の実権を握るも・・

明智光秀や松永久秀など、主君を裏切った武将は日本には多く存在した。彼らの末路は哀れなものだったが、陶隆房もまた例外ではなかった。当初大内義隆の重臣として仕えた彼はなぜ主君に背いたのか、その末路とは一体どんなものだったのだろうか?

大内家に仕える

陶隆房(のちに晴賢に改名)は大永元年(1521年)に周防国の戦国大名である大内家に仕えていた陶興房の次男として生まれた。

少年の頃から容姿端麗だった彼は、大内家の第31代当主の大内義隆に仕え、元服を迎えたときに義隆から "隆" の一字をもらって「隆房」と名乗る。天文8年(1539年)には父の興房が死去したことを受けて家督を継承。隆房19歳のときであった。

天文9年(1540年)に出雲国の尼子晴久が吉田郡山城を攻めたときに、毛利元就を支援するべく義隆から総大将を任せられた。武略に優れた隆房は総大将として見事に尼子軍を撃退している(吉田郡山城の戦い)。
戦功を挙げた隆房は、その勢いのまま尼子氏のいる出雲国への遠征を主張し、天文11年(1542年)に尼子領に攻め入る。しかし尼子の本拠・月山富田城攻めでは、寝返りする者がでて攻略に失敗、多くの死傷者を出して撤退を余儀なくされている。(第一次月山富田城の戦い

主君との対立から謀反

尼子との戦いで大敗した結果、主君の大内義隆は軍事行動に興味を示さなくなった。主君のこの変貌ぶりにがっかりしたのは隆房だった。彼は武将として武勇を立てたいと強く思っていたことから義隆に尼子との宣戦を訴えるが、義隆は既にそんなことに興味を失っていてそうした意見を退けるようになる。そして文治派の相良武任を重用するようになり、軍事とは程遠い公家文化に傾倒していくことに。

こうして隆房と大内義隆の関係が悪化していく中、隆房は天文14年(1545年)に大内家で発言力が強くなっていた相良武任を強制隠居に追い込み、大内家の主導権を奪還することに成功。しかしながら、この行動に対して義隆は憤りを感じ、天文17年(1548年)には室町幕府に働きかけて相良武任を評定衆として復帰させている。それでもなお、隆房は天文19年(1550年)に大内家の重臣である内藤興盛と結んで相良武任の暗殺を計画。しかし事前に発覚となって失敗し、義隆から厳しい叱責を受けて大内家中での立場を失うのであった。

そして翌天文20年(1551年)、隆房はついに謀反を決意して同年8月に挙兵、義隆を深川大寧寺に追い込んで自害させた。隆房は主君を殺すだけではとどまらず、義隆の嫡男である義尊も殺し、文治派筆頭の相良武任を自害に追い込み、対立していた豊前守護代の杉興矩も殺害した。これらの一連の事件のことを大寧寺の変という。この事件によって大内家の実権を握ることになる。

毛利との対立

天文21年(1552年)に隆房は義隆の養子である大友晴英を大内家の当主として擁立して大内家の実権を掌握した。隆房はこのときに晴英を君主として仰ぎ見ることを形として周囲に表すために、主君の晴英の名前から "晴" の一字をもらい受けて「晴賢」と名乗るようになる。

晴賢は将来的な領土拡大のために軍備強化を進めていったが、やがて安芸国吉田郡山城主の毛利元就と敵対するようになる。もともと元就は隆房のクーデターにも賛同していて、大内家の実権を掌握した晴賢に従う関係にあったが、旗返城の帰属問題をきっかけに対立する。
尼子に寝返った毛利家臣の江田隆連を攻めるべく、元就は大内氏に援軍を要請。両軍合わせて1万6千の兵が江田の旗返城を攻囲して陥落させた。元就は落とした城は自分たちに帰属するものと考えていたが、毛利氏の威勢に危機感を抱いていた晴賢は、毛利の勢力拡大を防ぐべく家臣に勝手に城を与えたのである。

この行動に激怒した元就が、天文23年(1554年)5月に晴賢との断交を決断。その後の元就の動きは迅速だった。晴賢が三本松城の戦いで石見国の吉見正頼を攻めている間に、毛利軍は佐東銀山城・己斐城・草津城・桜尾城を奪取し、厳島も占拠し、安芸国の大内家の城のほとんどをわずか1日で陥落させてしまった。このような元就の反撃に驚いた晴賢は宮川房長を安芸国に派遣するも大敗を喫してしまう(折敷畑の戦い)。

この結果を知った晴賢は、毛利元就を討つべくさらに軍勢を集めて2万人の軍勢で侵攻、毛利軍の拠点を次々に落としていった。毛利軍はわずか4千の兵士しかおらず、調略を用いないと勝ち目はないと判断した元就は「巌島を攻められると厳しい状況に追い込まれる」という嘘の情報を陶晴賢方に流した。なぜ元就がこのようなことをしたかというと、巌島は小さな島で大軍を島に呼び寄せてもうまく動きが取れないと判断したからだ。

最期

この嘘情報を知った晴賢は元就の作戦にハマって軍を厳島に呼び集めることに──。
そして弘治元年9月21日(1555年)、晴賢は2万の軍勢を自ら率いて厳島に入るが、毛利軍の奇襲攻撃を受けてしまう。対抗しようにも大軍のために動きが取れず、毛利に味方した村上水軍からの攻撃もあって、晴賢はついに追い込まれて逃亡するも、退路を断たれて自害を余儀なくされたのである(厳島の戦い)。享年35。辞世の句は、

何を惜しみ何を恨みん元よりもこの有様に定まれる身に

その後、弱体化した大内家が再興することはなく、代わりに毛利元就が中国地方の覇者へと成り上がっていくことになる。





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