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「斎藤道三」美濃の国盗りは親子2代で成し得たのが正しい!?

斉藤道三の肖像画
「美濃の蝮(まむし)」の異名をもつ斎藤道三。一介の油商人から美濃一国の大名に成り上がった戦国大名であり、信長の正室・濃姫の父としても知られている。彼は下剋上の代表的な一人であったが、皮肉にも晩年には身内による下剋上で最期を迎えることになる。

道三の父・長井新左衛門尉

道三の生涯に関しては、確かな史料に乏しいことから特に前半生においては疑問な点が多い。従来、美濃の国盗りは道三が一人で成し遂げたものとしていたが、新たな史料の発見などによって現在は親子2代にわたるものだったことが有力のようだ。ややこしいことに、『美濃国諸旧記』などにみえる一代記としての道三の国盗り物語は、道三の父の経歴が混ぜ合わさっているのである。そのため、まずは道三の父・長井新左衛門尉の事績を明らかにしていこう。

道三の父は美濃国守護・土岐氏の守護代であった斉藤氏の重臣・長井新左衛門家の家臣だったといい、道三の先祖は代々北面武士を務め、事情によって牢人となり西岡に住んでいたという。要するに出自は低い身分の武士である。幼名は峰丸で、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受けて僧侶となり、"法蓮房"と名乗ったといい、その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して "松波庄五郎" と名乗った。

灯油を売る商人から美濃の武士へ

油問屋の奈良屋又兵衛の娘と結婚した庄五郎は油売りを生業として、大永年間に油商人として成功して美濃国内で評判になった。しかし、やがて武士になりたいと思った彼は、常在寺の住職・日護上人の紹介で斉藤氏に出入りするようになると、長井秀弘に気に入られて、ついに念願かなって家臣となり、同時に長井氏家臣の西村氏の名跡を継いで "西村勘九郎正利" を称したのである。

なお、『美濃国諸旧記』によれば、庄五郎は油を注ぐパフォーマンスをしていたという──。
油を注ぐときに、漏斗(=口の小さい容器に液体をそそぐときに使う、あさがお型の道具。)を使わずに一文銭の穴に通すパフォーマンスを行い、油がこぼれたら代金は無料にする、という商法によって評判を得た。そしてある時、油を購入した土岐氏の武士から「その油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれると思われるが、惜しいことだ」と言われ、庄五郎は槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったというのである。

道三の父がいつ頃から美濃の武士になったのかは定かでないが、道三が誕生したと伝わる明応3年(1494年)より前の可能性が高いらしい。そうなると道三は美濃で生まれたことになる。

守護土岐氏の重臣へ

長井秀弘が明応5年(1497年)に戦死すると、嫡子の長井長弘が家督を継いで、守護代斉藤氏の重臣となる。そして勘九郎の武芸と才覚に魅力を感じた長弘は守護の土岐頼武(政頼)に勘九郎を引き合わせた。

やがて守護土岐氏では永正14年(1517年)に嫡男頼武と二男頼芸による家督争いが勃発。頼芸が長弘の主君だったこともあり、勘九郎は頼芸にも信頼されて重臣へと駆け上がると、翌年頃には長井の姓をもらい受けて、"長井新左衛門尉" と名乗っている。この家督争いで新左衛門尉は大きく活躍。大永5年(1525年)頃に頼武を戦死させたか、享禄3年(1530年)頃に越前へ追いやっており、頼芸の守護補任に大きく貢献しているのである。なお、この時点で道三はまだ台頭してきていないとみられる。

道三登場!父の国盗りを継承。

天文2年(1533年)の6月付けの文書に、新左衛門尉との連署で "藤原規秀" の名がみえる。これは道三のことであり、彼の史料上の初出である。ちなみに諸史料から同年には父・新左衛門尉が亡くなり、道三が美濃国盗りを引き継いだと考えられている。
同年、道三は実権を握っていた長井長弘を越前に追放された土岐頼武と内通したとして上意討ちの名目で殺害、そして "長井新九郎規秀" と称すようになった。 これが道三の下剋上のはじまりとなる。


天文4年(1535年)には斉藤氏の名跡を継いで "斎藤新九郎利政" を称したとみられる。"道三" という名は法名であり、まもなくして入道して法体となり、天文5年(1536年)に"斉藤新九郎入道三" を名乗る。この年、頼芸・道三らは、わずか11歳の土岐次郎とこれを支援する六角・朝倉連合と大きな合戦をしているが、翌天文6年(1537年)には和睦して同盟を結んでいる。

道三は天文10年(1541年)に頼芸の弟・土岐頼満を毒殺してしまい、これがきっかけとなって主君頼芸との対立が勃発。そして翌年、ついに主君・土岐頼芸とその子・二郎(頼次)を尾張へ追放し、美濃を事実上支配、こうして道三は国盗りを成し遂げ、一介の油商人から一国の大名にまでのしあがったのである。
なお、『村山文書』から見るに、頼芸が追放されたのは天文19年(1550年)とみるべきであり、国盗りも同年までに成し遂げたとの見方がある。

織田氏と同盟、信長の義父になる。

その後、美濃を乗っ取られた頼芸が織田信秀に協力を要請して再三攻撃をしかけてくると、道三は天文17年(1548年)に娘の濃姫(帰蝶)を信秀の子、このとき15歳の織田信長に嫁がせて織田家との対立を回避した。この婚姻による和睦は織田家の老臣・平手政秀の才覚によるものである。

道三は「うつけ者」と評されていた信長と初めて正徳寺(現在の愛知県一宮市冨田)で会見したとき、信長のふるまいに度肝を抜かれるが、そのときに家臣対して「我が子たちが信長の門前に馬をつなぐようになる(=信長の家来になる)」と言ったエピソードは有名であろう。

 【逸話】正徳寺の会見

天文21年(1552年)には織田家で信秀が病没し、信長が家督を継いだ。一方、道三は天文23年(1554年)に家督を子の斎藤義龍へと譲り、自らは剃髪して鷺山城に隠居している。しかし、これは完全に隠居したわけではなかったことから、義龍との間に不和が生じるようになっていったと考えられている。

息子の義龍と対立、泥沼となった最期

さて、道三の息子には長男・義龍のほか、次男・孫四郎と三男・喜平次がおり、道三は3人の息子と稲葉山城に居城していた。

『信長公記』によれば、道三は長男・義龍を愚か者とみなして他の弟2人を偏愛していった。これに怒った義龍は、弘治元年(1555年)に仮病を使って弟2人を呼び寄せ、ご馳走をだして無防備にさせたところ、2人とも切り殺してしまった。そして義龍がこのことを山の麓にいる道三に伝えると、仰天した道三はすぐに兵を集めて町全体を焼き尽くして撤退し、長良川を越えて山県郡の山中へ逃亡したという──。

このほか、義龍の母・深芳野は元々、土岐頼芸の愛妾であったことから、義龍は道三の実の子ではなく、土岐頼芸の子であったとする説もある。事実かどうかは定かでないが、道三がこれを疑って義龍との対立が生まれたという見方もある。

弘治2年(1556年)、ついに道三は義龍を討つために挙兵して長良川の戦いが勃発。だが、道三方の兵力2千に対し、義龍方はその10倍もの兵力が集まっていた。この時点で道三の敗戦は決まっていたが、それでも道三は戦に臨んだ。道三は義龍のことを「無能」と評していたが、この戦いでの彼の采配を見て、その評価を改め、後悔したという。そして最期は義龍に返り討ちに遭い、あえなく戦死となった。享年63。

道三の遺言・墓所など

なお、この戦いの前日、道三が末子の勘九郎にあたえたという遺言は以下のとおりである。

そのほうの儀、兼約のごとく、京の妙覚寺へのぼられ、もつともに候。一子出家すれば九族天に生ずといへり。

「そなたはかねての約束どおり、京都の妙覚寺へのぼられよ。一子が出家すれば、九族が天に生まれ変わると言われているほどだ。」という意味。

斎藤山城、法花妙躰の内、生老病死之苦を去り、修羅場において仏果を得んぞうれしき哉。すでに明日一戦に及び、五体不具之成仏、うたがひあるべからず候。げにや捨てだにこの世のほかは なきものをいづくかつひの住家なりけん。

「この斎藤山城道三、法華妙躰の中にあって生老病死の苦を去り、戦場においても仏陀の果報を得るであろうことをうれしく思う。もはや明日は一戦に及び、たとえ五体が不具になったとしても成仏することに疑いはない。誠に命を捨ててさえ、この世の他に生きる世などないのに、一体どこが住家なのだろうか。この世の他はすべて無である。」といった意味。

道三の首級は?

道三が首を討たれた際、乱戦の中で井上道勝によって鼻も削がれたという。道三の首は義龍側に就いた旧臣の手で道三塚に手厚く葬られた。墓所は岐阜県岐阜市の常在寺に営まれているほか、同市の道三塚も。常在寺には道三の肖像や「斎藤山城」印などが所蔵されている。





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