丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「大内義隆」西国随一の大名として大内氏の最盛期を迎えるが・・

大内義隆の肖像画
毛利元就のライバルといえば、中国地方の二大巨頭であった大内家と尼子家が浮かぶ。その大内家の最後の当主が、大内義隆である。晩年は政治に関心を失った末、家臣陶隆房のクーデターに遭い、大寧寺の変で命を落としたが、決して暗愚の将だった訳ではない。その45年の生涯をみていこう。

生まれながらにして名門の後継者に

大内義隆は幼名を亀童丸(きどうまる)といい、永正4年(1507年)11月15日に周防山口の大内館で生まれた。 父は中国地方と北部九州に強大な勢力を持つ大内家の当主義興(よしおき)、母は長門守護代の内藤弘矩の娘で、亀童丸の幼名は父や祖父と同じである。

当時は幼児の死亡率が非常に高い。そのため各大名家では、子供の成長を待ってから後継者を決める例が多かった。しかし義隆は、歴代当主と同じ幼名を付けられている。生まれながらにして、戦国の名門大内家を継ぐ後継者として定められた人物だった。 10代前半には元服し、義隆を名乗った。15歳ごろに初陣を迎えたようである。 結婚は10代後半で、京都から上級公卿の娘を呼び寄せて娶っている。その間に父義興と共に戦場に出て、安芸国の武田氏や毛利氏、山陰の尼子氏と戦うなど、後継者に相応しい経歴を重ねていった。

覇気に溢れた若き当主

享禄元年(1528年)12月に父義興が亡くなり、義隆は22歳にして第31代大内家当主となった。この時、巨大勢力に付き物のお家騒動が起きていない。義隆が生まれた時から、次期当主として育てられたことが大きかったろう。重臣の陶興房(すえ おきふさ)らの支えも大きかったが、興房が義隆を支え続けたのに比べ、興房の子・陶隆房がのちに大内家を滅ぼすことになるのは皮肉である。

当時の大内家は、室町幕府の有力者細川家との抗争に打ち勝ち、中国との貿易利権を独占して強大な力を持った。義隆は陶興房らを北九州に派遣して、大友氏や少弐氏らと戦わせている。享禄3年(1530年)の田手畷(たてなわて)の戦いや天文3年(1534年)4月の勢場ヶ原(せいばがはる)の戦いなどでは後れを取ったが、全体的には優勢に事を運び、鎌倉時代以来の名門である少弐氏を天文5年(1536年)9月に滅亡させて北九州を平定した。 同時期に、かつて大内家が京都へ進出して室町幕府の政治を左右した歴史を再現しようと、上洛も目論んでいる。尼子氏の妨害にあって実現はしなかったが、20代から30代にかけての義隆は、覇気に溢れた当主として大いに活躍していた。

尼子氏に勝利した全盛期

天文8年(1539年)に、家督を継いで以来の重臣・陶興房が病没している。この頃から、山陰のライバル尼子氏との抗争が本格化していった。天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いは、毛利元就が飛躍した戦いとして名高いが、当時の捉え方は大内義隆と尼子晴久の中国地方二大巨頭の対決である。陶興房を継いだ隆房が活躍し、勝利した大内家が優勢になって、義隆は全盛期を迎えることになった。 防府の大内館には権力と富が集まり、「西の京」と呼ばれる繁栄を見せる。義隆は公家の娘を妻に迎えたことなどもあって京文化への関心が強く、文化芸術への援助を惜しまなかった。防府は京都を真似た碁盤目状の街並みに作られ、公家が滞在するなど大いに栄えたことから、「大内文化」と呼ばれる芸術の一時代を築く。それが行き過ぎて文弱の風を生み、陶隆房の反乱を招いたともされるが、別に理由を求める意見もある。いずれにしても、義隆の治世はクーデターで終わるとはいえ、暗愚の将ではなかった。

月山富田城の戦いと大寧寺の変

山陰の雄尼子氏の息の根を止めようと、尼子晴久の籠もる月山富田城を囲んだのが天文11年(1542年)1月のことである。義隆自ら出陣したこの戦いは長期にわたった末、後継者に据えていた大内晴持を弱冠20歳で失うなど、大内方の大敗北に終わった。 これ以後義隆は、政治への関心を失ったとされる。家臣の相良武任(さがら たけとう)を寵愛したため、その対抗勢力の陶隆房らとの対立が深まっていった。現在では相良武任らを文治派、陶隆房らを武断派と呼んでいる。両者の抗争の他にも、義隆の政治思想が時代にそぐわなくなっていたとの見方もあり、大内家は内部から徐々に衰退していったようである。

天文20年(1551年)8月末、陶隆房は遂にクーデターを起こす。大寧寺の変である。義隆を守ろうとする家臣はほとんどおらず、生まれながらの当主だった権威はすでに無かった。隆房に追い詰められ逃げ場を失った義隆は、長門の大寧寺に立て籠もり、最後まで付き従った忠臣・冷泉隆豊の介錯で自刃を遂げた。享年45。『討つ者も 討たるる者も諸(もろ)ともに』で始まる悲しい辞世の句を遺している。

その子義尊(よしたか)も直後に陶隆房の軍に捕まり処刑されたため、名門大内家は事実上滅亡した。中国地方だけでなく日本全国でも1、2を争う巨大勢力の終焉は、呆気ないものだった。陶隆房は晴賢と名を変えて大内家を簒奪するが、天文24年(1555年)の厳島の戦いで新興勢力の毛利元就に敗れて滅ぶ。大内家のあった周防長門の地には毛利家が台頭して、戦国時代のラストスパートを引き継いでいくのである。





おすすめの記事

 PAGE TOP