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「藤堂高虎」武勇・築城・内政…。稀に見る多芸多才で多くの逸話をもつ将

藤堂高虎は、仕える主を何度も変えた事や、徳川家康から厚く信頼された事、築城の名人など、いくつもの顔を持つ戦国武将である。戦国出世の代名詞と言っていい活躍を見せつつ、築城にも才を見せた高虎の生涯とは、どんなものだったのだろうか。

主君を目まぐるしく変えた青年時代

藤堂高虎は、弘治2年(1556年)1月6日に近江に生まれる。跡継ぎではあったが家は没落土豪で、世に出るには戦場で手柄を立てるしかない境遇だった。

最初に仕えた武将は、北近江を支配していた浅井長政である。織田信長の同盟者として広く知られるが、すぐに敵対し、元亀元年(1570年)姉川の戦いで織田家と干戈を交えた。足軽だった高虎はこの戦いに加わり、織田方の首級をあげて感状(手柄を認める報賞状)を得ている。弱冠15歳で手にした手柄が、高虎の出世の始まりとなった。

天正元年(1573年)に浅井家が信長により滅ぼされると、わずか4年ほどの間に主君を目まぐるしく変えていく。浅井家家臣だった阿閉貞征(あつじ さだゆき)、磯野員昌(かずまさ)に仕えるも長続きせず、故郷の近江を離れて信長の甥・織田信澄に転仕する。そこでも重く用いられなかったため、三度浪々の身に戻った。20歳前後ですでに4回主君を変えており、高虎の血気盛んな様子が垣間見える時期である。

急激な出世を遂げた20代

21歳の天正4年(1576年)、300石で豊臣秀長に召し抱えられてから、藤堂高虎の本格的な出世街道が始まる。秀長は豊臣秀吉の弟で、その右腕であったから、自分を高く評価してくれる人物を探し求めていた高虎にとって理想的な上司だったと言えるだろう。

秀長のもとで高虎は戦場を疾駆する。天正9年(1581年)には3000石に加増され、中隊長クラスまで出世すると、本能寺の変後の天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで敵将の佐久間盛政を敗走させ、秀吉軍勝利のきっかけを作った。さらに天正13年(1585年)の紀州攻めと四国攻めで軍功を重ね、遂に1万石を超える所領を得て大名級の地位に登り詰める。

20代にして急激な出世を遂げられたのは、戦場で手柄を立てやすい鉄砲隊を任されたためとも言われる。また、紀伊で築城の奉行を任されており、のちに名人と呼ばれる城作りに携わるようになったのも、この頃からだった。

徹頭徹尾期待に応える流儀

高虎は豊臣秀長の忠実な家臣として、天正15年(1587年)の九州島津攻めでは4月の根白坂の戦いで活躍し、2万石に加増された。天正17年(1589年)に秀長の所領で起きた北山一揆では、多くの農民を処刑しており、戦国武将の厳しさを見せている。

そして天正19年(1591年)の秀長の病死が、さらなる出世への契機となった。しばらくは秀長の養子の後見を務めるが、文禄4年(1595年)に養子が死去すると、秀長家を離れて慶長の役を経て伊予国で8万石の大名となる。藤堂高虎が自立した大名となるのはこの時からで、まだ30代の半ばであった。

「何度も主を変えた変節の武将」と呼ばれることのある高虎だが、実際の生涯を見ると、主が変わったのは事実としても「変節」は当てはまらないだろう。秀長には忠義を尽くし、養子の死去後は落飾して高野山で世捨て人になろうとしている。秀吉に説得されて大名に戻ると、秀吉の死まで豊臣家の忠実な武将であり続けた。仕え甲斐のある主君と見定めたら、徹頭徹尾その期待に応えるのが、高虎の流儀だったと言える。

豊臣の武将から徳川の重臣へ

慶長3年(1598年)8月に天下人・豊臣秀吉が病死すると、高虎は徳川家康に急接近していく。これを「変節」と指弾するのも正確ではなく、秀吉在世時から高虎と家康は近しい関係にあった。加えて加藤清正福島正則ら家康に付いたほかの大名たちと同様、関ヶ原の西軍側となる石田三成らとは仲が良くなかった。当時の政治情勢からして、妥当な生き残り策だったと見られる。ただ、家康側に付くと決めたら誰より先んじる明快さは高虎らしく、信頼を得るべく徹底的に家康にへりくだったから、変わり身が早いと見えるのは確かだろう。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍の大谷吉継と真正面からぶつかり、多大な犠牲を出しながら徳川の勝利に貢献している。西軍武将への寝返り工作でも手柄を立て、関ヶ原の戦功随一と認められ、伊予で20万石を治める大大名に引き立てられた。こののち高虎は、長く豊臣家に仕えた武将でありながら、徳川家の重臣と目されるようになっていく。

政治家と技術官僚のふたつの顔で活躍

関ヶ原からのちの藤堂高虎は、政治家と技術官僚のふたつの顔で活躍する。

技術官僚としての事績は、のちに名人と呼ばれるようになる築城術で、豊臣時代を含め、宇和島城や今治城、篠山城、津城、伊賀上野城、膳所城など数々の名城を築き上げた。いわゆる天下普請で江戸城が改築された際も奉行を務め、戦場の手柄ではなく築城の才で所領の加増を得ている。
また、徳川幕府から厚い信頼を得ていたことが分かるのが、会津や高松、熊本各藩の執政を任されている点だ。お家騒動などで藩政が混乱している国のまとめ役をわざわざ仰せつかるほど、高虎の能力と忠誠心は徳川家に評価されていたのである。

出世にともなって四国や紀伊などを所領としてきた高虎だったが、慶長13年(1608年)に伊勢国津に入って22万石となると、ここが終生の本拠となった。伊勢国津藩と呼ばれるこの藤堂家領国は、高虎の死後も明治まで国替えなく続いていく。

大坂の陣とその後

慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂の陣の時、藤堂高虎はすでに還暦近かったが、戦場を生き抜いてきた才覚は衰えていなかった。自ら戦場に立ち、夏の陣の最大の激戦となった八尾の戦いで、長宗我部盛親隊と衝突。双方甚大な被害を出しつつ、大坂方を壊滅させて、関ヶ原同様、徳川方随一の軍功をあげた。 その甲斐あって家康から激賞され、元和元年(1616年)に家康が死の床についた時は、2代将軍秀忠らと共にその枕頭に侍ることを許されている。家臣として破格の扱いと言っていい。家康死後も高虎の徹底した忠節振りは変わらず、江戸の津藩敷地内に東照宮を作って家康を祀った。これが現在上野公園にある上野東照宮である。

身長190cmの大男だった、自ら鉄砲を打つことが出来た、若いころ無銭飲食した餅屋に出世後に代金を返したなど、高虎を語るエピソードは数多い。その中に、不仲だった大名加藤嘉明を重要な役に推挙した話が残されている。なぜ不仲な人物をと問われ、「遺恨は私事。国家の大事に私事など無用」と答えたという。高虎の人物像がうかがえるだろう。

寛永7年(1630年)10月5日、江戸の藩邸で75歳の生涯を終えた。墓は上野東照宮のある上野公園に隣接する寒松院にある。





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