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「本山茂辰」長宗我部氏再興の裏で、没落過程を生きる。

「土佐七雄」と呼ばれる土佐の有力国衆の一角・本山氏。当主の本山茂辰はあの四国の雄・長宗我部元親とたびたび抗争を繰り返した勇将だったが…

本山氏と長宗我部氏にくすぶる対立の歴史

本山茂辰は土佐の国人領主・本山茂宗の嫡男として誕生した。生没年ははっきりしていないが、茂辰の誕生当時、本山氏と長宗我部氏は敵対関係にあったと思われる。

かつて父の茂宗は永正5年(1508年)に大平氏や吉良氏と結託して長宗我部兼序が守る岡豊城を攻囲し、兼序を滅ぼしている(岡豊城の戦い)。このとき、まだ幼少だった兼序の息子・長宗我部国親が一条氏の庇護を受け、長宗我部はかろうじて滅亡を免れている。
その後、岡豊城は一条房家を介して永正15年(1518年)に長宗我部方に返還されたのだが、そのとき に和睦となって茂辰が国親の長女を娶っており、本山家と姻戚関係に。以後の長宗我部はお家再興のため、しばらくは当主の国親が奔走することになる。

家督継承と同盟破綻

一方、茂辰は天文9年(1540年)には土佐国の吉良宣直を討伐し、吉良城を奪って土佐国中央部を支配するなど、勢力を広げていったとみられる。

そうした中、弘治元年(1555年)に父・茂宗が死去。これは本山氏にとって大きな打撃であった。 茂辰が本山氏の家督と朝倉城の城主とを継承するが、これを機に翌弘治2年(1556年)には国親が本山氏家臣の秦泉寺氏に攻撃を加えてくるなど、長宗我部氏との関係は微妙なものになった。さらに一条氏とも対立関係にあった本山氏は東西から挟撃される可能性も生じてきたのである。

茂辰は土佐国長岡郡北部から吾川郡南部にまで領土を広げていたが、永禄3年(1560年)に長宗我部国親が種崎の城に兵糧を運んでいる最中、本山の兵がこれを略奪するという事件が発生。国親は激怒するも茂辰は「家臣がやったことで私の指示ではない」と弁明した。国親はこの弁明に納得せずに茂辰を恨むようになる。

同年5月26日、国親が本山氏の持つ吾川郡長浜城に夜襲をかけて陥落し、ついに両者の関係は破綻となった。
この戦いでは長浜城の修築工事に関わっていた福留右馬丞という男に所領を与えるという約束で内側から手引きさせたという説がある。城主の大窪美作守は逃げ延びて茂辰にこのことを知らせると、茂辰は早速2千の軍勢で長浜に進軍。これに対抗すべく、国親も嫡男・長宗我部元親に1千の兵を持たせて進撃させた。翌27日に長浜表の戸ノ本で両軍が激突することになった。(長浜の戦い

茂辰はこの長浜の戦いで敗北。一方で長宗我部氏はこの戦いの直後に国親が死没し、元親が家督を継承した。

本山氏の没落と茂辰の最期

長浜の敗戦で多数の拠点を奪われた本山氏は没落の一途をたどっていく。以後も長宗我部氏の攻勢で本山の支城は次々と奪還されていき、永禄5年(1562年)の9月にはついに茂辰の本拠地・朝倉城を攻囲されてしまうことになった。(朝倉城の戦い)

茂辰は徹底抗戦するも、支えきれずに永禄6年(1563年)正月に退去して本山城に逃げ込んだ。 また、同じ頃、他方で一条兼定の軍勢にも攻め込まれて蓮池城を奪還されている。この頃の本山氏は長宗我部氏と一条氏の両氏を一気に敵に回していたのである。

こうした劣勢状態が続いたことから家臣が次々と長宗我部方に寝返り、茂辰は大勢を覆すことができないまま翌永禄7年(1564年)に病没したとされている。

その後、茂辰の跡を継いだ子の本山貞茂は、元親の攻撃に耐えかねて本山城を捨てて叔父・本山茂定が守っている瓜生野城へと逃亡。その後は元親に攻囲されて降伏し、長宗我部の軍門に降った。





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