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「大内義長」陶氏の傀儡だった大内当主の運命は如何に?

室町時代から西国の雄として長門国を拠点に勢力を広げていた大内家の最後の当主となった大内義長。彼の生涯は運命と下剋上の流れに翻弄されたものであった。

実際の出自は大友氏

大内義長は天文元年(1532年)頃、大友義鑑の二男として豊後国に産まれた。
天文11年(1542年)、当時の大内家当主・大内義隆は尼子氏との戦いで養子である晴持を失っており、晴持の代わりに義長を猶子として迎え入れることになる。ちなみに猶子というのは養子とは違い、もし義隆に実子が産まれれば義長は大内氏の家督を継ぐ権利を生じないものであった。実際、天文14年(1545年)に義隆に実子が産まれたので彼は猶子関係を解消されて豊後国に戻ることになる。

もしこのまま何も起こらなければ、彼は大友家の一門として兄の大友義鎮(のちの大友宗麟)を補佐する一生を送っただろう。しかし、運命は義長にそのような人生を与えはしなかった。

陶政権の傀儡に

天文20年(1551年)、男色関係のもつれから大内義隆が家臣の陶晴賢によって自害させられるという大寧寺の変が発生。この後、晴賢は義隆とともに義隆の実子も死亡したため、猶子であった義長を当主にしてほしいと大友家に要請する。義鎮は弟の身を案じて反対したが、義長は中傷を受けるのが悔しいという理由で自ら当主となることを望み、大寧寺の変の混乱がひとまず収束した翌天文21年(1552年)5月5日に大内家の本拠だった山口に入り正式に大内家の家督を相続した。

この時、義長は大内家の祖先が上陸したという多々良浜から上陸し、大内家の正当な当主である事を内外にアピールしたとみられているが、実際には晴賢の傀儡でしかなかった。やがて石見国の吉見氏や安芸の毛利氏に叛旗を翻され、弘治元年(1555年)には厳島の戦いで陶晴賢が毛利元就にまさかの敗北を喫して自害に追い込まれると、元々外様出身であった義長の求心力が低かったのも重なって家臣団の崩壊が一気にすすみ、大内家は衰退の途をたどる。

毛利軍に滅ぼされる

こうした状況を見た毛利元就がさっそく大内領への侵略を開始した。のちに防長経略と呼ばれることとなるこの一連の戦いで、大内家の諸城は毛利軍によって次々と陥落していくことになる。一方、この間の弘治2年(1556年)に、義長は明に対して日明貿易の再開を依頼したものの、正当な大内家の当主とは認められずに拒否されている。

こうした中、兄義鎮にも援軍を求めたが、大友と毛利の間では大内領を割譲する密約が結ばれていたため、大友からの援軍は来なかったという。反撃を試みたい義長だったが、家臣の内藤隆世と杉重輔が山口の町を炎上させる程の内紛を起こしたのもあり、最終的に山口を放棄して且山城に籠城することに。しかし、まもなくしてそこも毛利軍によって包囲されると、内藤隆世が義長の助命を条件として開城して自刃。このときは命拾いした義長だったが、その後に長門長福院(現在の功山寺)に入ると、まもなくして毛利軍に自刃を強要され、最期は無念にも自害して果てた。享年26。

なお、義長の自害の直前、毛利元就は大友家に義長の助命を提案したが、当主の義鎮は大内家の家宝である大内筒を所望したとも言われている。義長の人生は運命に翻弄され、頼りになるはずの実家からも見放されるという悲劇的なものであった。





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