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「大内義興」乱世の北九州・中国の覇権を確立。幕政にも大きく関与した明主。

大内義興の肖像画
流れ公方こと・足利義稙の将軍復帰に尽力し、新政権をその圧倒的な軍事力で支えた大内義興。管領代に就き、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職をも兼ねた男は、幾内・中国・九州にと、戦争で大忙しの生涯であった。

誕生~家督継承

大内義興は文明9年(1477年)、周防国の守護である大内政弘の嫡男として誕生。この年はちょうど応仁の乱が収束した年にあたる。

大内氏といえば、平安・鎌倉時代に地方官僚として周防国を支配し、室町時代には幕府にも影響力を及ぼす守護大名として君臨。 戦国の最盛期には山陽・山陰・北九州など6か国を支配した大大名として知られる。

父政弘は、応仁の乱のときは西軍の山名宗全に属して畿内各地を転戦。宗全死後に事実上の総大将として勇名を馳せた。収束してからは周防・長門・豊前・筑前の4か国もの守護を安堵されるとともに、北九州に出陣して豊前・筑前も確保。文明12年(1480年)には幕府の相伴衆となり、9代将軍・足利義尚の六角高頼討伐にも参加するために再上洛している。

こうした中、義興は長享2年(1488年)に京都にて元服。将軍義尚から「義」の一字を賜って「義興」と称すと、明応元年(1492年)には父に従って六角討伐に参戦している。

明応2年(1493年)には明応の政変が勃発。これは管領の細川政元が新将軍に清晃(のちの足利義澄)を擁立し、10代将軍足利義材(のちの足利義稙)を廃したクーデターである。このとき義興は政元に味方しているが、その背景には政元の策謀があったようだ。当時、京都に滞在していた義興の妹が政元派の者に誘拐される事件が発生しており、これを人質として味方になるように同意させたという。

明応3年(1494年)の秋、父政弘が病気で隠居したために家督を相続。翌年には父の死に伴って、名実ともに大内家当主となる。

家中内紛の洗礼を浴びる。

明応4年(1495年)、19歳という若さで当主となった義興には、次々と災難が降りかかった。
同年には、家臣の陶武護から「内藤弘矩が大護院尊光(のちの大内高弘。義興の弟)の擁立を企てている」という讒言を受けて内藤弘矩・弘和親子を誅殺。のちに弘矩の無罪が明らかになると、弘矩の名誉回復のためにその娘を正室にし、武護には死を命じたという。また、明応8年(1499年)には陶武護の讒言が現実のものとなり、重臣の杉武明が豊後の大友親治とともに義興弟の尊光の擁立を企てた。しかし事前に発覚したことで、杉武明ら謀反人は処刑となり、尊光は大友氏を頼って逃れている。

一方、この間に対外的にも動きがあった。

大友家では、義興の従兄妹にあたる大友義右が当主だったことから友好関係にあったが、明応5年(1496年)に義右が急死すると、「対立関係にあった実父・政親に毒殺された」という噂が流れる。こうした中、実権を握った政親は北九州の大内領侵攻のために挙兵するが、船が遭難してあろうことか大内氏の本拠・長門国に辿り着いた。このとき義興は激怒して政親を捕え、切腹させている。
また、翌明応6年(1497年)には、肥前国の少弐政資・高経父子を破り、最終的に自害させるなど、肥前国に勢力を広げている。

再上洛し、新たな幕府の管領代となる。

こうした中、かつて管領の細川政元に将軍職を追われ、各地に亡命していた前将軍・足利義材(この頃は義尹に改名)が義興を頼って山口に入ると、義興はこれを擁立して政元ら室町幕府と対立。これに対し、政元は大内領の周辺の諸大名らに義興討伐を命じ、翌文亀元年(1501年)には天皇の意向も得たため、義興は「朝敵」となった。
以後、義興は幕府の命を受けた大友・少弐・毛利氏らとの抗争となるが、やがて毛利弘元を味方につけ、大友親治とも義尹の仲介によって和睦。家を再興した少弐資元とはしばらく対立したものの、こちらも永正4年(1507年)には和睦が成立している。

同年、中央では管領政元が後継者争いのもつれによって暗殺されるという大事件が勃発。その後、中央は大混乱となり、管領細川家の内紛は、一旦政元の養子・細川澄元が後継者となったが、依然として不穏な空気に包まれていた。
これを好機とみた義興は、義尹を擁立して上洛軍を起こし、もう一人の養子・細川高国と通じて翌永正5年(1508年)に澄元や将軍義澄を追い出すことに成功。義尹を将軍職に復帰させる功績を上げた。新たな幕府体制において、義興は管領代という地位を得て、将軍義尹や管領高国とともに幕政を担うポジションに立ったのである。

軍事支援のために長らく在京するも…

しかし、九州への帰国を望む義興とは裏腹に、以後の幾内情勢は戦乱に包まれた。というのも高国に敗れた澄元がたびたび政権奪回を図って挙兵するからである。いわゆる「両細川の乱」と呼ばれた高国派と澄元派の戦いは長らく続くことになる。

永正6年(1509年)如意ヶ嶽の戦い永正8年(1511年)の深井の合戦・芦屋河原の戦い船岡山合戦など、両陣営の激闘が繰り広げられたが、永正9年(1512年)には、義興の合戦での功績がたたえられ、従三位に上階されて公卿の仲間入りを果たす。 これは後柏原天皇が決定したことであり、京都の平穏を保つために義興の軍事力が必要だったとみられる。

長らく在京していた義興だが、やがて将軍義稙や高国と不仲となっていき、出雲の尼子経久の台頭によって自領が脅かされたため、 永正15年(1518年)に管領代を辞職して帰国した。

尼子氏との戦い

帰国後の義興は、離反した安芸国の武田元繁・光和父子や友田興藤との抗争に手を焼き、大永3年(1523年)には彼らと通じた尼子経久の猛攻に押され気味となる。この年、安芸国の毛利元就も尼子氏に離反し、鏡山城の戦いで大内方が敗れるなど、安芸・石見の支配権を失いつつあった。


しかし、大永4年(1524年)以降は安芸・石見における勢力を徐々に回復するなど、戦況を有利に進めていった。なお、毛利家では元就が家督継承したのをきっかけに、大永5年(1525年)に再び大内氏への傘下を明確にしている。

こうした中、享禄元年(1528年)に陣中で病に倒れると、山口に帰国してまもなく没した。享年52。


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