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「本願寺顕如」信長を10年間苦しめた石山本願寺の住職

本願寺顕如の肖像画
顕如と言えば各地で勃発した一向一揆の指導者であり、同時に武田信玄らと連携し織田信長包囲網を築いた人物である。戦国時代に一大勢力を築いた顕如とはどのような人物だったのか、戦乱に生きた仏教指導者の人物像と生涯に触れていこう。

本願寺第10世・証如の長子

顕如は天文12年(1543年)1月7日に生を受けた。父は本願寺派第10世の証如、母は庭田重親の娘・顕能尼である。当時の本願寺は青蓮院の末寺であったため、我々が知る本願寺とは幾分違った存在であった。しかし母方の祖父である重親が、公家の中でも太政官の最高幹部・公卿の地位にあったことや証如が九条家の猶子(親子関係を結ぶこと)であったことが、後に一大勢力を形成する力となる。

顕如は生まれながらにして次期宗主になることを運命づけられていたが、天文12年(1554年)8月12日に父証如が重篤となったことをきっかけに得度が早まった。証如を師として正式な得度式を本願寺で行なった最初の本願寺宗主となるが、年端もいかないため、教団を運営では祖母・鎮永尼を助けを受けることになる。なお、顕如という名称は法名である。

顕如が拠点とした大坂本願寺は証如時代からのものであり、それ以前は京都にあった山科本願寺が拠点であった。しかし第34代室町幕府管領・細川晴元と対立により襲撃されたため大坂本願寺に移転している。

政略結婚と勢力拡大

下剋上という時代背景の中で、顕如も政略結婚をしている。お相手は三条公頼の実娘であり、同時に六角定頼と猶子関係を結んでいた如春尼であるが、さらに注目してほしいのが如春尼の実姉が信玄の母・三条夫人であることだ。2人は政略結婚ではあったがとても睦まじい関係で、七夕に詠み合った歌が残されているほどである。

勢力拡大に大きく貢献した出来事の一つが、正親町天皇に門跡を与えられたことである。摂関家・九条家と父子に渡り猶子関係を築いていたことや顕如が教団運営を行えるまでに成長していことが理由であった。寺院を構成する院家となった大坂本願寺は、院家として河内国顕証寺など畿内各地の寺院に坊官を派遣、証如時代から進めていた一向一揆の掌握に乗り出すとともに証如時代に対立していた細川家や公家と縁戚関係を通じて基盤拡大を目指した。京や西国とを結ぶ要衝であり、自治都市・堺を間近にする大坂を拠点としたことや経済力、そして信徒や地侍らとの連携を強めたため戦国大名に匹敵する力を持つことになる。

信長との対峙

永禄11年(1568年)9月、織田信長足利義昭を警備して上洛、以降は畿内への影響力拡大に乗り出す。元亀元年(1570年)9月12日には、信長による三好三人衆攻略のため敷いていた陣営を顕如が攻撃したことから淀川堤の戦いが勃発、野田城・福島城の戦いが始まり、10年に及ぶ石山合戦の戦端が開かれた。また同年には天下布武を掲げる信長と幕府が中心となる政治を目指す義昭との間に対立が生じ、義昭は私的な文書である御内書を顕如や武田信玄毛利輝元など有力勢力らに送り始めている。顕如は東の武田、北の朝倉・浅井、西国の毛利とともに信長包囲網を形成した。

顕如は紀州の雑賀衆や地侍などの土豪勢力や一揆を起こすなどして抵抗、自ら石山本願寺に籠城して指揮を高めた。一時は信長の手強い勢力となるが、信長は義昭や朝廷を利用して和睦工作を展開、包囲網突破のための時間稼ぎを目指した。

元亀4年(1573年)までに信長は、朝倉・浅井勢力らに勝利、また上洛を目指した信玄が病死するなど包囲網にもほころびが生じる。勢いに乗った信長は、大坂本願寺に向けて本格的な攻勢を開始、木津川口の戦いでは毛利水軍の協力を得たことから顕如が大勝するものの、第二次木津川口の戦いでは最新兵器の鉄甲船により信長に大阪湾の制海権を奪われる。無補給にもかかわらず1年半も抵抗を続けるが、信長との和睦を決断する。顕如には夫人・如春尼の間に三人兄弟がおり、その長子・教如の強硬な反対を押し切る形で和睦に導いたが、この対立が本願寺分裂の遠因となる。

信長亡き後の顕如

信長との和睦後、紀伊国鷺森別院に移った顕如は、本能寺の変後、急速に力を持ち始めた豊臣秀吉と和睦する。秀吉は天下人の拠点にふさわしい大坂城と城下町を整備するが、これは石山本願寺を基盤としたものであった。また、天正13年(1585年)に摂津中島に天満本願寺を建立されたものの大阪城の北、現在の大川の辺りに近い郊外の低地であったため、秀吉政権の強い統制下にあったと考えられている。

同年に大僧正に任じられ、翌天正14年(1586年)には太皇太后・皇太后・皇后の準ずる准三宮の宣言を受けるなど高い地位を保証、さらに秀吉の九州征伐に同行し下関に滞在したこともある。天正17年(1589年)3月には京での本願寺再興に貢献し、天正20年(1592年)11月24日に示寂した。

秀吉は本願寺派の後継者に三男・准如を指名したが、教団内の和睦派と抵抗派との分断は修復できなかった。後の天下人となった徳川家康は抵抗派に寺領を寄進したことから東本願寺派が誕生、本願寺が東西に分裂するきっかけとなった。





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