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本願寺・延暦寺・金剛峰寺ほか…。戦国期の主な宗教勢力まとめ

僧兵のイメージ

戦国時代の宗教勢力は、まさに「袈裟をきた戦国大名」でした。彼らは宗教本来の目的を超えて政治集団化し、戦乱に乗じて勢力を拡大。

戦国初期は、法華経(日蓮宗)の活動が盛んでしたが、やがて比叡山延暦寺・高野山金剛峰寺・石山本願寺が台頭し、彼らが三大宗教勢力として威勢をふるいました。

今回は、そんな戦国時代の主な宗教勢力についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと 理穂)

戦国初期に大暴れした法華宗(日蓮宗)

まずは法華宗からみていきましょう。

法華宗は鎌倉仏教の一つ「日蓮宗」であり、開祖といえば、かの有名な日蓮です。

日蓮はもともと比叡山や高野山で学んでいました。やがて題目と呼ばれる「南無妙法蓮華経」を唱える「法華経」の重要性を説いて開宗。のちに権力者である北条時頼に対して、浄土宗を邪法と論じて法華経を国の柱にすえる「立正安国論」を進言しています。

つまり、対立宗派を非難して信者を獲得していったワケです。このため、日蓮宗は浄土宗や浄土真宗から恨まれ、また鎌倉幕府からも睨まれることとなり、日蓮も伊豆に流罪となりました。

日蓮宗の総本山は山梨県の身延山久遠寺です。戦国時代には甲斐守護大名である武田氏や、領主の穴山氏の庇護を受けて門前町を形成しています。日蓮の死後も、法華宗の体質は特に変わらずに好戦的だったらしく、天文年間には、日蓮宗は京都で強い影響力を持つようになります。

天文元年(1532年)には、敵対関係にあった本願寺派の浄土真宗と対立。日蓮宗は管領・細川晴元らの軍勢と結託して、本願寺派の寺院をことごとく焼き払い、このとき本願寺の拠点・山科本願寺も焼失しています。これを「法華一揆」と呼びます。

京都で一大勢力となった日蓮宗ですが、今度は延暦寺と衝突。

天文5年(1536年)、延暦寺は日蓮宗に対し、末寺として支配下に入るように要求し、拒否されると、六角定頼の力も借りて6万の軍勢を集めて、日蓮宗寺院を攻撃。京都の日蓮宗は多くの死者を出して壊滅し、京都を追い出されるハメとなります。

以後6年間、日蓮宗は京都において禁教とされますが、天文11年(1542年)には、京都帰還を許す勅許が発せられ、六角定頼の仲介によって延暦寺と和議を結んでいます。

信長の天敵だった石山本願寺(一向宗)

法華宗に代わって、次に勢力を伸ばしたのが一向一揆勢力です。

「一向宗」は、浄土真宗本願寺派を指しますが、これは周囲が使用していた名称であり、正式には「浄土真宗」といいます。 開祖は親鸞。彼は比叡山の天台宗の僧でしたが、下山して浄土宗の法然に弟子入りました。浄土真宗の経典とされる主著の「教行信証」には、悪人が自分を悪であると自覚することで阿弥陀仏の力を借りて救われるという「悪人正機説」「他力本願」が説かれています。

本願寺の総本山は天文2年(1533年)から石山本願寺となっています。

先に述べたように、前年には、以前協力関係にあった細川晴元や、当初から敵対関係にあった法華宗徒、そして晴元から要請を受けた六角義賢に攻められ、かつての本拠・山科本願寺が焼失しています。

石山本願寺は摂津国にあり、堀や土塁、柵、塀などを築いて防御力を高めていきました。かなり堅固な防御を誇る寺内町で、のちに激闘を繰り広げた織田信長との戦いでも耐え抜いています。

一向宗は、本願寺9代法主の実如が、明応の政変に参戦してから武装が強化されていき、10代証如、11代の顕如に至って最大勢力となります。

天皇や公家にも接近、さらには有力大名とも関係性を強めていきます。
11代顕如は六角義賢の養女と結婚し、甲斐の武田信玄とも親戚関係となり、さらに相模の北条氏、越前の朝倉氏、近江の浅井氏などと同盟を結んで、織田信長に対抗しました。

元亀元年(1570年)から信長との抗争がはじまり、各地で一向一揆を扇動し、大いに信長を苦しめますが、天正4年(1576年)には大敗して籠城を余儀なくされます。そこで顕如は、室町幕府の将軍・足利義昭の力も借りて中国地方で大きな勢力を築いていた毛利氏と同盟を締結。毛利輝元は織田の水軍との激戦の末、石山本願寺への兵糧の搬入に成功しました。

しかし信長はさらに力をつけて、毛利の水軍も撃破。結局、石山本願寺は信長との和睦を決断することに。 勅令によって和議が結ばれ、12代法主教如が退去した直後、石山本願寺は焼失してしまいます。

なお、顕如の没後、本願寺派は権力闘争が起こり、東本願寺と西本願寺に分かれることになっています。

信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺(天台宗)

比叡山延暦寺は天台宗の総本山です。ここは奈良の平城京から遷都した後の平安仏教の中心地でした。

天台宗の開祖といえば、歴史の教科書にも登場する「最澄」です。「伝教大師」とも呼ばれている彼は、19歳にして東大寺で正式な僧に認められ、延暦23年(804年)に遣唐使として天台山で学び、帰国して「天台宗」を開いています。

最澄は全国に三か所しかない大乗戒壇を設立するために奈良仏教と衝突。直接論争を行った他、著書の「顕戒論」で反論もしています。その結果、最澄の没後に戒壇設立が認められました。
この天台宗で学び、独立していった人物には、法然、親鸞、日蓮の他、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元など多数の偉人を輩出しています。

延暦寺の武力は年々強まっていったといいます。

「山法師」と呼ばれる僧兵の武力は有名で、時の権力者に強訴を行う程だったらしく、白河法皇も自分でもコントロールできないもののひとつに山法師をあげています。延暦寺は法皇すらも手がつけられない巨大な権力を有していたのです。

延暦寺は朝廷権力から「不入の権」を認められており、武力と共に流通を支配して財力もあったため、独立国のような状態でした。奈良の興福寺と並び称され、「南都北嶺」と畏怖されています。

まさに寺社勢力の中心的存在だった延暦寺ですが、戦国期には新興勢力として台頭してきた織田信長を敵視。元亀元年(1570年)志賀の陣で浅井・朝倉軍を匿うのです。

このとき、信長は独立国のような延暦寺を今後の障害となると判断して武装解除を勧告しますが、延暦寺はそれに応じなかったため、信長の恨みを買いました。

これが影響して、翌元亀2年(1571年)に信長の手で「比叡山焼き討ち」という憂き目に遭います。このとき建築物は徹底的に焼き尽くされ、僧兵だけでなく僧侶も虐殺されました。

信長存命中は再興を許されなかったが、信長死後、生き残りの僧侶らが羽柴秀吉に復興を嘆願し続け、天正12年(1584年)にようやく許されたといいます。比叡山焼き討ちから約13年後のことでした。

信長の死で難を逃れた高野山金剛峰寺(真言宗)

最後に高野山金剛峰寺についてです。信長は延暦寺は焼き討ちされ、石山本願寺も焼失した。その後標的にしたのがこの金剛峯寺です。

開祖は空海。彼も延暦23年(804年)に最澄と共に遣唐使に選ばれ、青龍寺で密教について学びました。エリートの最澄とは違い、空海は31歳頃にようやく東大寺で正式に僧に認められています。遣唐使だった頃は無名だったようです。

帰国後、嵯峨天皇より和歌山の高野山に「金剛峯寺」を建立することを認められましたが、工事がはかどらず、京都の東寺を下賜され、「真言宗」の本寺に定めています。東寺は鎌倉時代以降、教王護国寺とも呼ばれます。そのため真言宗は「東密」とも呼ばれるのです。空海は「弘法大師」とも呼ばれます。

最澄は密教については、空海ほど深い知識がなかったようで、空海から教わったとも伝わっています。嵯峨天皇、橘逸勢と並ぶ「三筆」に数えられるほどの達筆ぶりで、「弘法も筆の誤り」ということわざが有名です。

真言宗の総本山は東寺で、金剛峯寺は末寺となります。金剛峯寺は、高野山真言宗の総本山です。当初、東寺との確執もあって金剛峯寺は衰退していきますが、長和5年(1016年)ごろから再興され、藤原道長が参拝して以降、上皇らも参拝に訪れ、大いに栄えるようになりました。

金剛峯寺は空海の没後に完成しています。武士が台頭して以降は、出家する場所にこの高野山が選ばれることが多かったようです。

戦国期の金剛峯寺は延暦寺同様、僧兵による巨大な武力を有していましたが、やはり信長とは敵対していくことになります。

信長の有力家臣だった有岡城城主・荒木村重は、天正6年(1578年)10月に謀叛を起こして籠城しますが、結局は敗北して妻子を捨てて高野山に逃げ込みます。

天正9年(1581年)に金剛峯寺は荒木村重の家臣らを匿い、探索に来た信長の使者を殺害。 このため、信長は報復行動に出て、全国にいる高野山の僧侶を数百名捕らえて処刑しています。

その後、信長が数万の兵で高野山へ攻め入り、金剛峯寺は窮地に追いやられますが、ちょうどその頃に「本能寺の変」が勃発して信長が横死したため、難を逃れることができました。その後は天下統一事業を継承した秀吉とも揉めていますが、最終的には和解して存続を許されています。

まとめ

戦国時代の寺は、現代の私たちが想像する寺とはまったく様相が違ったものでした。平和なイメージとは程遠い、軍閥的なイメージが強かったのです。

巨大な勢力を誇った寺社から武力を奪い、政治に関わらせないようにすることは時代の改革には必要だったのかもしれません。宗教を無力化すること。これは戦乱が続く戦国時代において、天下を統一するには避けては通れない道だったのでしょう。

しかし話し合いで解決するようなことは稀で、武力によって解決した例がほとんどです。寺院側にも命に代えてでも守るべき信仰があり、実に多くの血が流れてしまったのです。その象徴が比叡山延暦寺の焼き討ちなのかもしれません。

戦国時代を彩る「安土・桃山文化」は、これまでの室町時代や鎌倉時代、平安時代と比較して宗教色が薄まりました。 それは信長と秀吉の登場によるものでしょう。

信長は天下統一に向け、武力で寺院を強引にねじ伏せていきました。また、信長の後継者である秀吉も絶対的な君主としての地位を確立しました。例えば、室町幕府は臨済宗を保護し、この時期から禅宗が大きな影響力を持ち始めるのですが、秀吉はその大成者である千利休を切腹させています。

そのため、奈良・平安・鎌倉仏教といった長く日本の政治に干渉していた宗教は、最終的にその勢力と影響力を大きく削がれていったのです。





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