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室町の茶の湯文化「殿中の茶」とは?

茶のイラスト

茶道というと、千利休がその様式を完成させたといわれる「草庵の茶」を思い浮かべますよね。わびの精神を重んじる、質素で無駄のない自然の美を求めた茶の湯のスタイルです。しかし、戦国時代初期はまったく違った茶の湯のスタイルであったことをご存知でしょうか。

今回は、室町時代に行われた「殿中の茶」について紹介しましょう。
(文=東 滋実)

茶の湯のはじまり

そもそも茶の湯とは、古代に中国からもたらされた茶と禅とが宗教修行を経て結びついたことから発展した文化です。禅の修行では、自己と向き合って心を落ち着かせ、「無」になる修行を行います。これには激しい睡魔と邪気がまとわりつき、修行の妨げになりました。

そこで用いられたのが茶です。中国から伝来した茶はもともと覚醒作用と栄養がある薬として使われたとされています。喫茶のもつ「覚醒」という作用は、禅の修行と結びついて茶の湯として発展したのです。

武家社会と茶の湯

お寺で発展した茶の湯文化がなぜ武家社会にも定着したのか。それは茶が持つ覚醒作用と、禅宗の修行のあり方が武士の世界には必要なものであったから、と考えられています。

室町時代は戦乱が続く世の中。いつ戦で命を落とすかもしれない身です。そんな中で覚醒作用をもつ茶が珍重され、武家社会で広がりを見せました。また、茶と関わり深い禅宗の修行のあり方「自然と向き合い、枯山水に美を見出し心を落ち着かせる」こと、こうした禅の修行が武士に共感され、武家社会の拠り所となったのです。

足利義満と茶の湯

室町時代でも、武家社会に茶の湯文化が定着したのは足利義満以降だといいます。義満は西芳寺などの様式に影響されて「鹿苑寺(通称・金閣寺)」や「慈照寺(通称・銀閣寺)」をつくり、山荘で茶の湯を楽しみました。

現在の茶道とは大きく異なる「殿中の茶」

さて、最初に触れたように、「殿中の茶」は後の時代の「草庵の茶」とは全く違うスタイルでした。無駄を削ぎ落した「わび」の心をもつ草庵の茶に対して、殿中の茶は格調と格式を重んじる貴族・武家の文化だったのです。

会所建築の成立

殿中の茶が武家社会に定着したのは、室町時代に「会所建築」が発達したことが大きく関わっているとされています。

会所建築とは、室町時代に造られた主殿を中心とする武家住宅の様式「主殿造」の主屋となる建物とは別に作られた、催し物や会合を行うための建物です。殿中の茶は、この会所で行われるひとつの催し物だったのです。

産地当てゲーム!?「闘茶」とは

会所で行われていた殿中の茶の内容はどんなものだったかというと、「闘茶(とうちゃ)」と呼ばれる茶の産地を言い当てるゲームのようなものでした。これはもともと中国の唐代に始まった遊びで、宋代に遊戯として発展したもの。日本では伝来後に独自の発展を遂げました。

当初は、京都の最高級のお茶「栂尾茶(とがのおちゃ)」を「本茶」と呼び、それ以外を「非茶」としてその二択を飲み分けて当てるというものでしたが、次第に宇治茶が本茶に格上げされるなどして複雑になっていきました。

唐物の格式を重んじる

人々が集って闘茶のようなゲームが行われた会所では、唐物の掛け軸を並べて「絵合わせ」をしたり、香を焚いて香りを楽しんだりしたようです。

また、殿中の茶で使用される道具は輸入品ばかりだったといいます。茶道具は中国の陶磁器や漆器がすばらしいものとされました。殿中の茶は単に茶の湯を楽しむものではなく、唐物の格式を重んじる場でもあったのです。異国からもたらされた高級な茶道具を扱い、遊戯にふける。無駄をそぎおとした美を求める草庵の茶とは全く違う、上流階級の文化といえます。このころはまだ一般に喫茶の習慣はありませんでした。

懐石料理とともに現代へ

さて、室町時代に定着した「殿中の茶」とは、静かに茶を楽しむだけでなく、人々が集まりさまざまな催しを楽しむ宴会のような場でもあったことがわかりました。

会所では茶だけでなく、さまざまな料理が出され、宴会が行われるのです。茶はつまり、宴会の最初と最後に飲むものでした。間には唐物の器に盛られた料理が振る舞われ、酒も出されます。これがのちの世の「会席料理」や「懐石料理」と呼ばれるものです。

懐石料理は禅宗の茶の湯文化から生まれた日本料理伝統のスタイルとされていますね。一方、会席料理は「本膳料理」が変化したものとされていますが、このふたつは似ているところも多く、互いに影響を受けつつ変容していったと考えられます。

現代まで続くその流れの中には、今回紹介した「殿中の茶」もあったのです。





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