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「島津貴久」薩摩統一を果たした島津四兄弟の父。

島津貴久の肖像画

島津宗家を継ぎ、一族同士の争いへ

島津貴久は永正11年(1513年)5月5日に日新公こと、島津忠良の長男として生まれる。幼名は虎寿丸。 大永6年(1526年)から翌年にかけて貴久は島津本宗家、つまり奥州家忠兼(のちの勝久)の養嗣子となり、薩隅三か国守護職を譲与される。しかし、その直後に忠兼は島津実久と結託、守護職譲与を悔返し、守護に復帰したとされる。 のちに島津実久は守護に就任。多くの支持を集め、台頭する。 忠良、貴久、忠将父子三人は天文5年(1536年)、伊集院城を攻略。その後、忠良、貴久父子は伊集院周辺の諸城、さらには鹿児島へと続くルート上の諸城攻略に着手する。忠良・貴久父子が薩州家、すなわち島津実久との全面抗争に入ったのは天文7年(1538年)のことであった。

薩摩統一

貴久は天文8年(1539年)、川辺郡の万之瀬川河口から坊津、そして薩摩半島北部の串木野・市来を島津薩州家から奪取し、要港の掌握に成功した。

天文8年(1539年)、貴久は鹿児島上之山に栫を築き、ここに出陣する。貴久は谷山本城から出撃してきた数十人を討ち破り、宇宿、波之平まで出撃したという。この戦いに勝利したことによって、谷山にあった薩州家方の三城(谷山本城、苦辛城、神前城)は支えることが困難となった。
時を同じくして、父の忠良は川辺古殿まで出陣し、川辺高城を開城させた。さらに翌日の3月29日には本城の平山城も開城し、4月1日には忠良が同城への入城を果たした。ここに島津相州家日新斎、貴久父子は薩摩半島統一を果たしたのだった。

天文9年(1540年)、薩隅三か国太守を自認するに至った貴久であったが、その勢力圏は依然薩摩国南部のみであり、三州全域に支配を及ぼすまでには多くの障害があった。貴久は領国内における権力確立、御一家・国衆らによる守護承認は重視したものの、幕府を中心とする京都政権との関係は近衛家からの積極的な働きかけにもかかわらず、さほど重視していなかったようだ。官位もこの時点では求めていない。その間に本田菫親、重親父子は、島津氏を超越する官位を手中に収めていた。 こうした対朝廷・幕府交渉において島津貴久は完全に遅れをとっており、貴久からの自立を図る本田氏はその点で一歩長じていた。

天文17年(1548年)5月22日、島津勢はついに本田菫親の居城である清水城に迫り、清水城の曲輪の一つと見られる新城を攻略した。ここにきてようやく本田菫親との和睦交渉が開始され、成立に至った。しかし、いったんは和睦が成立していたものの、天文17年8月、本田菫親は再び島津氏に反旗を翻す。すかさず伊集院忠朗らは清水城を包囲し、本田菫親、重親父子は北郷忠相を頼って庄内に落ち延びていった。かくして、島津貴久を凌ぐ官位を獲得した本田氏はあえなく没落したのであった。

同年9月、島津貴久は清水城に入る。貴久は清水城から曽小河村を次弟忠将に与え、老中伊集院忠朗を隣接する姫木の地頭とした。 こうして、15世紀末から16世紀初頭にかけて、大隅において紛争の絶えない地域であった大隅国府周辺は島津貴久の親族や老中で固められ、一転して島津氏による大隅支配の一大拠点へと変わったのである。

天文21年(1552年)、いまだ無位無官であった貴久は京都との独自ルートを持っていた種子島氏を頼り、同年6月11日付で従五位下修理大夫に叙位・任官された。島津氏の根本領国である薩摩・大隅・日向三か国は、東・西・南を海で囲まれている。このため古代以来、中国大陸あるいは琉球・東南アジア方面からさまざまな文物が流れ込んできていた。

永禄9年(1566年)、貴久は53歳で出家。新編島津氏世録正統系図によれば、これは非業の死を遂げた前将軍・足利義輝の一周忌に合わせての出家とされている。隠居・出家したことで政治的諸権限は長男・島津義久に移ったと見られるが、軍事においてはまだ指揮を取っていた。菱刈への電撃的進攻作戦は、貴久主導のものに行われたと考えられている。菱刈・牛屎が島津氏によって制圧されたことにより、完全に孤立した入来院重豊と東郷重尚は帰順するより他はなかった。

永禄12年(1569年)に降伏した両氏は、翌永禄13年正月、入来院重豊は百次・高江・宮里・天辰・碇山を、東郷重尚は水引・湯田・西方・高城を島津氏側に引き渡し、旧領の入来院・東郷のみを安堵された。貴久は菱刈両院の平定、渋谷一族の帰服にともなう所領宛行・召移を完了すると、父・日新斎の隠居城であった加世田別府城に入ったという。

両氏の降伏により、薩摩国一国が島津本宗家によって統一された。貴久が三州太守を自認して29年後のことであった。以後、貴久は加世田にて静かに余生を送ったと見られている。元亀2年(1571年)6月23日、加世田別府城にて没。享年58。島津本宗家の菩提寺・福昌寺が廟所となり、貴久みずから創建した松原山南林寺に位牌と御影が収められた。





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