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「島津歳久」計略知略で彼に並ぶ者はいない、という島津四兄弟の三男。

島津四兄弟の三男であり、祖父の島津忠良(日新斎)から「始終の利害を察するの智計並びなし」と評され、武勇にも優れていた歳久。彼は主に兄の義久や義弘の傍らで、作戦参謀として島津軍団の方針を左右する立場にもあったのだ。


2人の兄とともに育つ

歳久は天文6年(1537年)島津貴久の三男として誕生。

当時の島津氏は、宗家の家督を巡る内紛が続いており、祖父の日新斎と父貴久は、同族の島津実久と覇権争いを繰り広げていた頃にあたる。やがて日新斎・貴久父子は実久方に勝利し、島津宗家の家督相続、および薩摩国の守護職への復帰を実現。天文21年(1552年)に室町幕府と朝廷から薩摩国の守護を認められている。

こうした情勢の中、歳久は祖父・日新斎の影響を強く受けて育ったようである。

三男の歳久は、長兄義久とはわずかに4つ違い、次兄義弘とは2つ違いであったことから、幼少期を2人の兄とともに過ごした。 実際、歳久の初陣は、天文23年(1554年)の大隈・岩剣城の祁答院良重を攻めた時とされており、兄の義久・義弘もこのときの合戦が初陣だったとされている。

だが、この戦いはかなり苦戦したようだ。というのも、岩剣城は標高150メートルの岩剣山上にあって、岩盤が絶壁状の崖を成していて堅固な城であった。城兵の守りは固くて一進一退の攻防戦が続いたが、島津軍はこの合戦で初めて鉄砲を使用して激戦の末に勝利したという。
こうして兄たちとともに戦い、敵を撤退させる功を立てた歳久はこのとき17歳であった。

その後、翌弘治元年(1555年)正月の蒲生北村城の合戦では、蒲生方の計略にあって苦戦を強いられる事になり、歳久は陣中で孤立する中、負傷している。大隅蒲生氏との戦いは弘治3年(1557年)に最終的には蒲生本城を攻略して降伏させてはいるものの、歳久らにとっては苦い経験となった。

吉田城・虎居城の守将に

永禄5年(1562年)6月、日向国の伊東氏の謀略によって追いやられた北原氏を再興させるため、島津氏は相良氏や北郷氏と組んで進軍を開始。その過程で北原氏に従わない北原旧家臣の北原兼正を討伐することになり、歳久はその総大将に任命。大軍をもって敵の居城・横川城に攻め寄せてこれを見事に陥落させている。

その後の歳久は、翌永禄6年(1563年)から吉田城(松尾城)の城主を任され、以後18年間にもわたって祁答院地方も含めた領地を統治することになる。

ちなみに祁答院地方は、渋谷一族の庶流で薩摩国伊佐郡祁答院を本拠とする祁答院氏の拠点である。
島津と敵対していた祁答院氏だったが、永禄9年(1566年)に当主の祁答院良重が妻によって暗殺されたのを機に衰退の一途をたどることに。これによって同じ渋谷一族の入来院氏が祁答院地方を掌握して東郷氏とともに島津氏と戦うが、 元亀元年(1570年)には入来院氏・東郷氏ら渋谷一族はこぞって島津氏の従属下に入ったため、祁答院地方は島津のものとなるのであった。

歳久の妻子

天正5年(1577年)、島津氏が伊東義祐を国外に追いやって日向国を平定すると、歳久は伊東一族の娘・梅を側室とした。歳久はすでに児島備中守の娘を妻として長女がいたが、のちに梅との間に次女(伊集院洪久室)をもうけている。

虎居城へ入城

天正8年(1580年)には、祁答院12郷と合わせて1万8千石を加増されて虎居城へと入城。歳久は祁答院地方を主に治めていたため、歳久の直属軍は祁答院衆とも呼ばれ、のちに歳久が自害した後には祁答院衆が虎居城に籠って反抗するなど主従関係の厚い軍団であった。

九州征伐では兄弟の中で歳久だけが・・

天正14-15年(1586-87年)にかけて行なわれた豊臣政権による九州征伐では、開戦前に島津家中の評議において、歳久だけが和平案を唱えたという。その理由としては「秀吉は農民から身を起こし、今の地位を掴んでいるので只者ではない」と考えたからであった。

結局、歳久の和平案は一蹴されて島津氏は秀吉と戦う道を選ぶことになったが、合戦が経過して豊臣方の大軍に島津軍が劣勢に立たされるようになると、島津家中では和睦案が浮上。しかし、このときになって歳久は「和睦には時勢があるので、今は降伏すべきではない」と、以前とは真逆で徹底抗戦を主張したという。

義久や義弘ら兄が秀吉に降伏してからも、歳久は抵抗を続けた──。

秀吉が陣を移す際、祁答院地方の山崎に家臣を使いに出し、わざと険相な道に秀吉が乗る駕籠を案内して矢を射かけさせたという。だが、あらかじめ秀吉は襲撃に備えていたため、駕籠は空であった。その時に矢を射かけたのは歳久の家臣・本田四郎左衛門であったという。

梅北一揆と歳久の最期

その後、島津氏は秀吉に降伏し、やがて豊臣政権は天下を統一。歳久は秀吉に服従する姿勢を見せたものの、他の兄弟とは違ったようだ。

文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(文禄の役)の際にも、歳久は病気の中風を理由に参陣しなかった。そのためか、義久・義弘・家久らが秀吉から朱印状を与えられても歳久には与えられなかった。
こうした中、同年6月に島津氏の家臣・梅北国兼が一揆を起こした。動機は定かでないが、豊臣政権への反発であったと考えられている。(梅北一揆)

この反乱軍には歳久の家臣も多く含まれていたとされ、秀吉はこの反乱をきっかけに自分に反抗的な歳久の誅殺を要求した。 要請を受けた兄の義久はこれに抗うこともできず、ついには歳久追討の兵をだすことに・・。
島津家の家老・町田久倍が竜ヶ水まで進軍。これを知った歳久は竜ヶ水で自害しようとするも、病気の中風のため上手く自害できなかった。歳久は最期、「早くわしの首をとれ」と言い、これにやむなく原田甚次という侍が歳久の首を取ったという。

その際、付き従っていた家臣も殉死し、それを見た追討軍は刀や槍を投げ捨てて、地にひれ伏して悲しんだと伝わる。

その後、歳久の首は京都の一条戻橋にさらされたが、島津忠良が盗み出して京都の浄福寺に葬られた。享年56歳。

辞世の句と歳久の子孫

晴蓑めが 玉のありかを 人問わば いざ白雲の 上と答えよ ───

上記の歳久の辞世の句は「死んだ歳久の魂はどこへ消えたのかと聞かれたら無実を訴え思い残す事なく天に昇ったと伝えて下さい」という意味だとされている。

歳久の霊は島津家の菩提寺である福昌寺で供養され、秀吉亡き後は歳久最期の地に心岳寺が建立され、霊がまつられた。なお、歳久の死後は娘婿・忠隣の嫡男・常久が跡を継いでおり、その子孫は幕藩体制に入って日置9千万石を拝領したため、歳久は日置島津家の祖となった。

歳久が治めていた祁答院地方(現在の鹿児島県さつま町)では今でも住民が歳久を崇拝しており、「島津金吾左衛門歳久」と呼ばれた事から金吾様の愛称で親しまれ、歳久を祀る神社も多い。大石神社では、毎年9月の秋季例大祭で金吾様踊りが奉納されている。 幕末藩士の歳久に対する崇拝も厚く、妙円寺詣りに加え、心岳寺詣りも盛んに行われたとされている。

西郷隆盛も安政の大獄で追い詰められ、小舟の上で僧の月照とともに自殺しようとした際には、心岳寺の方向に手を合わせて海に飛び込んだとされており、戦国から幕末、現在に至るまで島津歳久の魂は生き続け、多くの人々に愛されているのである。





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