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「島津家久」きわめて優秀だった!?三人の兄と異なる母をもつ末弟。

島津四兄弟の末弟で上には義久・義弘・歳久の三人の兄がいるが、その中にあって家久だけが妾の子として知られている。兄たちと母が違うとはいえ、四兄弟の仲はとてもよく、その関係性は家久が急死する晩年に至るまで変わることがなかったようだ。

優秀な将だった家久

家久は天文16年(1547年)、島津家14代当主・島津貴久の四男として誕生。幼名は又七郎といった。

ここで家久の血筋に関して面白いエピソードがあるので以下に紹介しよう。

ある日、四兄弟で馬追を行なった際、歳久が義久と義弘に向かって言った──。
「こうして様々な馬を見ていると、馬の毛色は大体母馬に似ておる。人間もこれと同じだろう。」と。歳久の言いたいことを察した義久は「一概にそうとは言い切れない。父に似ることもあるだろうし、人間は獣ではなく心に徳を持っている。学問をして徳を磨けば父母に勝り、徳を疎かにすれば父母に劣る人間ともなるだろう」と言ったという。

母が異なろうとも、他の弟と同様に引き立てる長兄・義久の言葉は家久の心を大きく揺さぶったようだ。以後の家久は、昼夜学問と武芸に励み、数年のうちに四兄弟の能力の優劣もなくなったという。

やがて家久は祖父・島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評されるほど利発に育った。

15歳のとき、大隅国の肝付氏との戦いで初陣を飾るが、このときに敵将・工藤隠岐守を鑓合わせにおいて打ち取った。 また、家久が23歳となった永禄12年(1569年)には、大口城に籠る菱刈氏と相良氏からの援兵に対して伏兵を潜ませ、自らがおびき出した大口城の城兵を伏兵の元へと誘い込んで壊滅させるなど、目覚ましい手柄を挙げている。
なお、イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、家久のことを「きわめて優秀なカピタン(武将)」とまで評している。

『家久君上京日記』

天正3年(1575年)、家久は島津氏の三州平定を伊勢神宮に謝するために上洛。京では公家衆や堺の商人たちとも交流し、見分を深めたようだ。ちなみにこの頃の中央の情勢は、織田信長が織田政権を樹立して既に幾内を支配しており、室町幕府は15代将軍足利義昭が信長に追放されたことで事実上滅んでいた。この上洛の際、家久は明智光秀による招待を受けているほか、居眠りしながら行軍する信長の姿も見たようである。この時の上洛の様子は、のちに家久自身の手によって『家久君上京日記』という旅日記にまとめている。

「vs 竜造寺氏」での活躍

三州平定を果たした島津氏は、そのままの勢いで天正6年(1578年)耳川の戦いで豊後国の大友氏に圧勝。家久もこの戦いで高城に急行し、同城を守りぬいている。この結果、大きく衰退した大友氏に代わって、肥前国の竜造寺氏が台頭してきたため、家久はこの竜造寺氏との勢力争いに奔走することに。

天正10年(1582年)には、龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が島津に援軍を要請、家久らは出陣して龍造寺方の千々石城を攻め落とすなどの功をあげている。この竜造寺との戦いは、筑後・肥後方面において苦戦を強いられる状況が続いていたが、この膠着状態も天正12年(1584年)沖田畷の戦いで一気に形勢が変わることになる。

同年3月、家久を総大将とする島津軍は有馬氏を救援するために島原へと向かった。 この時、家久率いる島津軍の総戦力は有馬軍と合わせても5千~8千程度。これに対する竜造寺軍の兵力は1万8千~6万人(竜造寺軍の総数は諸説あり)にも達していたと言う。このように圧倒的に不利な戦況であったことから、陣中では島津軍主力の後詰を待つ持久戦を提案する声もあがった。しかし、家久は積極的な防衛策を掲げて、島原北方にある沖田畷へと竜造寺軍を誘い出す策を選んだのである。

当時の島原周辺は前山の裾野にかけて広大な湿地が広がっており、ここに竜造寺軍を誘い込むことで竜造寺側の進軍を遅らせる狙いがあったとも考えられている。一方、竜造寺軍では鍋島信生が持久戦を提案して警戒を促していたが、圧倒的な戦力差を活かして短期決戦を挑む案が採用された。この作戦の決定には急速に勢力を拡大した竜造寺隆信の慢心があったとも伝わっている。

こうして3月24日未明、竜造寺軍は有馬氏が布陣する森岳城を攻略するために、沖田畷へと進軍を開始。これを迎え撃つ島津軍が積極的な応戦をしなかったこともあり、戦闘開始当初は竜造寺軍が優勢に戦闘を進めていたという。しかし、沖田畷の奥には散開した島津軍が待ち受けており、深沼で細道が続く場所で反撃にあった竜造寺軍は思うように戦うことができなくなっていたことから、形勢が一気に逆転となった。

家久は ”釣り野伏せ” と呼ばれるこの戦法で、竜造寺側に壊滅的な打撃を与えた。総大将の竜造寺隆信をはじめ、重臣の多くを討ち取って大勝利を収めたのである。

この沖田畷の戦いで竜造寺氏は大きく衰退し、龍造寺傘下の国人らが一気に寝返って島津氏は一気に勢力拡大となった。だが、竜造寺側も隆信の義弟・鍋島直茂が徹底抗戦していたこともあり、最終的には島津家に有利な形で講和が図られるといった形で終結している。この勢いに乗じ、島津氏は大友氏を攻めて九州統一に乗り出したが、この動きはひそかに豊臣秀吉と通じていた鍋島直茂の計略もあって、秀吉軍の介入を招く結果となるのだ。

秀吉との戦いと最期

天正14年(1586年)、ついに島津氏の九州制覇を阻む秀吉軍が動き出した。大友氏を救援するため、仙石久秀を総大将として長宗我部元親・信親父子や十河存保などの先発隊を九州に派遣してきたのだ。

これに家久は豊後国に侵入してこれを迎え討った。戦いは両軍双方に大きな犠牲を出したが、合戦そのものは島津軍が勝利している。しかし、その後も圧倒的な兵力を送りこんでくる秀吉軍を前に、島津軍は善戦したものの、衆寡敵せずに翌天正15年(1587年)には降伏を余儀なくされた。なお、家久は島津四兄弟の中でも最も早く秀吉陣営と単独講和して、島津氏を安泰へと導いている。
だが、家久はこの頃はすでに病気となっており、同年6月5日に急死した。





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