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「板垣信方」信玄の傅役を務め、信玄に最も信頼された宿老

甘利虎泰とともに武田家臣団の最高職「両職」として双璧をなし、信玄にとって一番の良き理解者でもあった板垣信方。
信玄の父・武田信虎を追放した張本人との見方もあるが、実際はどうなのであろうか。

信玄の傅役、武田の宿老を務める

信方は、信虎と信玄の2代に仕えたが、その幼少・青年期に関してはよくわからず、誕生年もわからない。
ただ、父は板垣信泰と推定され、また、板垣氏は武田信義(=武田氏の祖)の三男・兼信が甲斐国山梨郡板垣郷に領地を得たことで興ったとされているから、武田氏の庶流にあたる。

信虎に仕えた時期ははっきりしないが、大永元年(1521)に信虎嫡男の勝千代(のちの信玄)が誕生した後、信方は信虎から信玄の傅役を命じられている。つまり、信玄の養育担当である。

やがて信虎が甲斐統一を果たし、北条や今川氏など国外勢力との戦いを始めた頃、信方は武田家の四宿老の1人に就いたという。

信玄の才覚を見抜いていた

ところで、信虎は信玄の弟・次郎(のちの武田信繁)を寵愛し、嫡男の信玄を疎んじていたことから、家臣らの多くも同調して信玄を「うつけ者」とみなしていたようだ。
しかし、信方をはじめ、甘利虎泰・小山田虎満ら一部の家臣はこうした声に同調しなかった。彼らは信玄が気兼ねして「うつけ者」を演じていることを見抜いており、信玄こそが武田家当主にふさわしいと感じていたからだという。

なお、時期は不明だが、信虎から駿河守の官途を与えられている。

信虎追放の首謀者か?

天文6年(1537)に入り、信虎は駿河今川氏の当主に今川義元が就いたのをきっかけとして、今川氏と甲駿同盟を結んだ。
これにより、今川氏と北条氏の同盟関係が破綻し、北条氏綱が今川領へ攻め込み、駿河東部を舞台に河東一乱が勃発する。

一方で、武田氏は信濃国への侵略に専念できるようになり、天文9年(1540)には武田・諏訪・村上の三氏が連合して、佐久郡・小県郡に攻め込んでいるが、このときに信方も従軍して功をあげている。

しかし、翌天文10年(1541)、信虎が同盟相手の今川義元のもとに駿河へ訪れた際、嫡男の信玄によって帰路を封鎖されて甲府に戻れなくなった。つまり、クーデターである。

この主君追放劇の背景として、「信虎・信玄父子の不仲説」や「信虎 "悪行" 説」など色々とあるようだが、これは信玄が1人で実行したわけではなく、信方をはじめとして、甘利虎泰や飯富虎昌ら武田重臣たちも関与していた。
しかも、首謀者は信方であったという見解が有力視されている。

というのも信方は、信虎から自分の留守中に以下のことを命じられていた。

  • 信玄を甘利虎泰とともに監視する。
  • 信繁を躑躅ヶ崎館の留守居役にする。

そして、信虎が駿河へ向かったあと、信方は甘利虎泰や飯富虎昌らを説得してクーデターを実現させたというのだ。

信玄の側近・駒井高白斎ですら、このクーデターを知らされていなかったため、極秘で進められたことがうかがえる。

家督を継いだ若き信玄に忠告

ところで、新当主となった若き信玄に対し、信方が諫言したというエピソードがあるので以下に紹介しよう。

※『甲陽軍艦』『名将言行録』

家督を相続した青年・信玄は、やがて詩歌や遊興・深夜までの酒宴など、怠惰な生活をはじめた。これに対して信方は、病を理由にしばらくの間は出仕もせず、詩歌を勉強していた。

やがて出仕した信方が言った。

板垣信方

殿。それがしも詩歌を作ってみたいので、お題を与えてもらえませぬか?

板垣信方アイコン
<a href='https://sengoku-his.com/shingen'><a href='https://sengoku-his.com/shingen/detail/543'>武田信玄</a></a>アイコン

信玄

!!?
・・・・で、では与えようぞ。お題は●●じゃ。
(なんだ・・説教じゃないのか。。)

信玄は信方に詩の才能があると思ってもなかったが、信方は優れた詩を次々と書いて信玄を驚かせた。

武田信玄アイコン

信玄

一体どこで、それを学んだのだ。

板垣信方

主の嗜むことを、家来が学ぶのは当然のことでございます。留守の間に僧に学びました。

板垣信方アイコン
武田信玄アイコン

信玄

うむ。そうであったか。

信玄は信方の返答に気をよくしたところ、信方はすかさずに言った。

板垣信方

殿。これを機に、詩作はほどほどになされませ。

板垣信方アイコン
武田信玄アイコン

信玄

!!

板垣信方

信虎様は横暴で悪行をなされたからこそ、道に外れた者として追放されました。 それなのに、信虎様の悪しき時代を正されるために大将となった殿(=信玄)がこの有様でしたら、信虎公よりも百倍も悪い大将といえましょう。

板垣信方アイコン
武田信玄アイコン

信玄

ぐ、くっ!!

板垣信方

腹正しく、ご成敗なされるのなら、ご馬前に討死いたしましょう。

板垣信方アイコン
武田信玄アイコン

信玄

う、ううっ・・。

信玄は感涙し、信方に対して「2度とこのような振る舞いはしない」と誓ったという。

諏訪郡代となり、信濃経略を牽引

信濃国の経略を父から引き継いだ信玄は、天文11年(1542)から諏訪郡を攻略して諏訪氏を滅ぼしているが、信方もこれに従軍して功をあげたとみられており、諏訪頼重を自害させるまで幽閉していた場所というのが、甲府東光寺にある信方の屋敷であった。

信方は翌天文12年(1543)になると、諏訪氏の居城であった上原城に入り、諏訪郡代に任命されている。
この上原城は、佐久郡・伊那郡・筑摩郡などをつないでおり、信濃経略の要衝の地であったから、信方は信濃経略において、非常に大きな役割を担っていたことがうかがえる。

外交官としても活躍

また、外交面においての活躍も見逃せないのが、駿河東部を巡る河東一乱(北条氏と今川氏の戦い)における和睦仲介である。

河東一乱は、天文14年(1545)に武田氏の仲介によって和睦となって終結したが、信方はこのとき、駒井高白斎らとともにが北条方の陣所である伊豆国へ赴いており、和睦交渉の使者として動いていたことがわかる。
この他、信方は本願寺との外交窓口も務めていたようだ。

志賀城攻めでの武功

天文16年(1547)の佐久郡志賀城攻めで、信玄は佐久郡をほぼ制圧することに成功したが、このときは別働隊として大功を立てている。

信玄率いる本隊が志賀城を包囲している間、敵の援軍、すなわち関東管領・上杉憲政が派遣した上野国からの軍勢が志賀城へ向けて押し寄せてきた。
このとき、信方は甘利虎泰らとともに小田井原で迎撃し、敵将14~15人と雑兵3千を討ち取って大勝利となったのだ。この後、討ち取った首級を志賀城の周囲に並べて敵城兵の戦意を削いだことで、まもなくして志賀城は落城している。

信方の最期

佐久郡を制圧した信玄は、翌天文17年(1548)には小県郡へも侵略の手を伸ばした。

2月14日、武田軍と村上義清の軍が千曲川を挟んで上田原に対峙、開戦となった。
『甲陽軍鑑』によると、先陣の信方は、敵を150余討ち取るすさまじい活躍であったが、退却する敵兵を追って他の部隊がついていけないほどであったという。
そこで信方は何を思ったのか、敵の首実験を行なったらしく、物見に出ていた敵将に察知されてしまい、村上勢に急襲されることに。突然に敵兵が出現したため、床几に腰掛けていた信方は、慌てて馬に乗ろうとするが、たちまち敵兵に囲まれて槍で突かれ、討ち取られたという。

なお、晩年の信方は、傲慢な行ないや軽率な判断などが目立つようになっていたといわれる。


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