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「飯富虎昌」武田の精鋭部隊 "赤備え"をはじめて率いた猛将

宿老として信虎・信玄の2代に仕え、赤備えで有名な山県昌景の兄として知られる飯富虎昌。
その最期は、信玄の嫡男・義信とともに謀反を企てた首謀者とみなされて死罪となったが、それが露呈したのは、弟の昌景が信玄に密告したことが原因であった。

定かでない出自

虎昌が誕生したのは永正11年(1514)といわれるが、定かではない。実のところ、虎昌の出自ははっきりしていないようだ。

飯富氏は、武田氏の譜代家老衆の家柄であり、『甲斐国志』によれば、甲斐国巨摩郡飯富を本拠としたという。
当時、甲斐国では武田信虎が国内統一の戦いを行なっており、翌永正12年(1515)10月には巨摩郡の国人・大井信達の本拠を攻めたが、このときに「飯富道悦」「飯富源四郎」なる人物が討死している。(『一蓮寺過去帳』『勝山記』など)

「飯富源四郎」という名は、山県昌景が若き頃に名乗っていたものと同じである。そして、どうやら飯富道悦と飯富源四郎は兄弟であり、源四郎が虎昌・昌景兄弟の父親だと推測されているようだ。

しかし、『甲陽軍鑑』によると、虎昌・昌景兄弟は元来、美濃国の守護・土岐氏の家来で、虎昌は小姓を務めていたという。そしてやがて2人は浪人して武田信虎に仕えたというのである。
つまり、甲斐出身ではなく、飯富氏とはなんら関係がなかったかもしれないということである。

信虎家臣時代

確かな史料で虎昌が最初にでてくるのは、享禄4年(1531)に信虎に背いたときのことである。

この頃の信虎は、甲斐統一をすでに果たし、信濃国諏訪郡など国外への侵略を行なっており、関東の北条氏と敵対する扇谷上杉氏や山内上杉氏とは誼を通じていた。

事の発端は、信虎が扇谷・山内の両上杉氏との関係強化を図り、山内上杉氏の上杉憲房の後室を側室に迎えようとしたことにあった。その結果、同年正月、このことを良く思わなかった虎昌・栗原兵庫・今井信元らが信虎から離反して甲府北部の山地にたて籠もり、信濃の諏訪頼満に支援を要請したのであった。

この反乱は、虎昌ら武田家中の謀反だけでなく、諏訪や甲斐国人らも加わって大規模なものとなったが、いずれも信虎に鎮圧されることになった。なお、虎昌は信虎に降伏し、そのまま処罰を受けることもなく、信虎家臣として復帰したとみられる。

クーデターに加担

その後、駿河今川氏が今川義元の代になると、信虎は天文6年(1537)に長女・定恵院を義元に娶らせて甲駿同盟を締結、さらに天文9年(1540)にも娘・繭々御料人を諏訪頼重に嫁いで諏訪氏と同盟を締結している。

天文10年(1541)には、信虎の嫡男・晴信(=信玄)と一部の重臣がクーデターを企てて、信虎が追放の憂き目にあっている。

ちなみにこの頃の武田家の中枢を担った四宿老は、板垣信方甘利虎泰・小山田備中守、それに虎昌を加えた4名である。
一説にこのクーデターの首謀者は板垣信方であり、彼に説得されて企てに参加した甘利虎泰と虎昌は、家臣団の結束に尽力したとも伝わる。

信玄家臣時代

以後、虎昌は四宿老の1人として、板垣信方や甘利虎泰らと共に若き信玄を支えていく。

新当主となった信玄は、信濃国の経略を引き続き行ない、翌天文11年(1542)には諏訪郡を、天文14年(1545)には高遠頼継や藤沢頼親を降伏させて上伊那郡を、天文16年(1547)には志賀城を陥落させて佐久郡をほぼ制圧した。

この頃、信玄の嫡男・義信は幼年期であったが、虎昌は義信の傅役(後見人)を務めていたとみられる。

次第に増長?

だが、甘利・板垣・小山田備中の3人の宿老の死後、虎昌はやがて増長して逆心を企てるようになったという。(『甲陽軍鑑』)
なお、板垣信方・甘利虎泰の両名は、信玄初の大敗となった天文17年(1548)上田原の戦いで討死しており、小山田備中守も天文21年(1552)に討死したとされている。

川中島での活躍

とはいえ、虎昌は川中島での戦いにおいて、多くの功績を残している。

天文22年(1553)8月の村上攻めでは、先鋒として村上義清の籠もる塩田城(長野県上田市)を陥落させ、義清を越後の上杉謙信のもとに追い出すことに貢献している。
その後はすぐに塩田城の守備を任されて入城したが、まもなく謙信が村上領の奪還に川中島に進軍してきたため、室賀城に移って防備を固めている。(第一次川中島の戦い)

弘治3年(1557)第三次川中島の戦いのときには、指揮官として北信濃へ侵攻し、同年2月に謙信方の葛山城を陥落させると、続けて高梨政頼の飯山城にせまっている。だが、4月には越後から謙信が出陣してきたため、信玄の指示で兵を塩田城に引き下げている。

その後、信玄は決戦を避けたため、謙信は6月に飯山城に本隊を移して下高井郡に進軍。信玄麾下の市川氏が攻められた際、虎昌は援軍として中野(長野県中野市) に出陣して上杉軍を牽制している。

永禄3年(1560)から翌年にかけて行なわれた上杉軍の関東遠征では、謙信は関東諸将らを味方にして北条氏康の小田原城まで大挙して押し寄せたが、このとき信玄は北条氏から援軍要請を受けて上杉軍を牽制するなどしている。

『甲陽軍鑑』によれば、このとき虎昌は、以下のように考えたらしい。

  1. 上杉の大軍を前にして、北条は滅ぶ。
  2. 北条が滅びたら、次は武田も攻め込まれて滅ぶ。
  3. 潔く上杉の大軍に挑んで滅びたなら、武田の家名は永遠に残る。
  4. だから、いま上杉の大軍と決戦すべき。

そして、上記のことを信玄に献策したが、信玄が聞く耳を持たなかったため、虎昌は多いに不満げだったという。

だが、虎昌は永禄4年(1561)9月の第四次川中島合戦の軍議でも決戦を主張し、このときは受け入れられている。

武田軍は軍勢を信玄本隊と別働隊の2手に分けて上杉軍を挟撃する作戦とし、虎昌は別働隊に入っていた。
挟撃作戦を謙信に見透かされて別働隊の奇襲が空振りに終ると、手薄となっていた信玄本隊が上杉軍と戦って窮地に陥ったが、まもなく虎昌ら別働隊が駆けつけて信玄本隊を救っている。

謀反を企てた最期

川中島の戦いは永禄7年(1564年)の第五次を最後に終結し、このころの武田氏は西上野へも勢力を拡大していた。
一方、武田・北条と三国同盟を結んでいた今川氏は、桶狭間の戦い織田信長に敗れて以降、すなわち、今川氏真に代わってからは没落の一途をたどっていた。

こうした情勢の中、信玄は外交方針を転じて今川氏を討とうと目論むようになる。
しかし、嫡男の義信は今川義元の息女を正室としているので、今川攻めは許容できるものではなかったのだろう。信玄と義信はやがて不和となったようだ。

永禄8年(1565年)、ついに義信と虎昌が共謀して信玄暗殺(または追放)を計画したという。
しかし、こうした不穏な動きは目付役に察知され、しかも虎昌の弟・飯富昌景(=のちの山県昌景)は義信から虎昌宛ての密書を入手したらしく、信玄にこれを報告して処罰するように進言したという。

こうしてクーデターは未遂に終わり、同年10月に虎昌が処刑されたほか、曾根周防守や長坂源五郎らも同様に処刑となった。一方で義信は死罪を免れたが、甲府の東光寺に幽閉されて廃嫡となった。

信虎と信玄の2度のクーデターに関わった虎昌だが、信玄暗殺(または追放)のクーデター計画においては、義信をそそのかした首謀者とみなされている。

受け継がれる「赤備え」

なお、「飯富の赤備え」として知られる虎昌の部隊は、甲冑や旗指物などの武具を赤に統一し、敵から恐れられたと伝わる。 虎昌の死後、「赤備え」の精鋭部隊は実弟の山県昌景、さらに徳川家臣の井伊直政へと引き継がれ、その勇姿は後世にまで伝えられたのである。


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