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武田信玄の性格の分析結果が意外すぎる!

武田信玄公像2

武田信玄と言えば、知らない人の方が少ないメジャーな戦国大名だと思う。しかし、どんな人物だったのかと聞かれると少々困ってしまうのではないだろうか。

そもそも、信玄の肖像画からしてはっきりと確定しておらず、近年になって信玄本人である可能性が高いとされる肖像画が判明しているのみである。その性格については肖像画よりもさらにはっきりせず、TVドラマや小説でのイメージが先行してしまっている感がある。

「孫子の兵法」に精通した戦上手で晩年は仏門に入ったということから、教養豊かな秀才と言うイメージも根強い。ところが、歴史資料を読み解くと、信玄に少々ダークな部分があるということが浮き彫りとなるのである。
(文=pinon)

ルイスフロイスの記述にみえる信玄の「怖さ」と「慢心」?

日本耶蘇会年報に収められているルイスフロイスの書簡によると、信玄は「武力により畏怖され、部下より大いに尊敬を受く。けだし、小なる欠点といえども宥(ゆる)すことなく、直ちにこれを殺害しむるを持ってなり」とある。

これが本当なら、家臣を大事にする名君というイメージは完全に崩れてしまう。どちらかと言うと織田信長に近い怖い性格を想像してしまいそうである。

また、この書簡よると信玄は「その名を誇示せしめんとの慢心より、その書状の上に次のごとく認めたり。『天台座主沙門信玄』と署名してあり(中略)其の意は天台宗の教の最高の家および教師信玄といふことなり」とあり、信玄が増長していると非難している。

もっとも、「天台座主沙門信玄」は「天台座主の下での修行者信玄」と解釈することもでき、そうなるとフロイスの非難は全くの的外れということにはなる。 ここからうかがえる信玄像は従来のどちらかと言うと、クリーンないイメージとはかなりかけ離れたものだと言える。

ただフロイスは偶像崇拝である仏教をあまり快く思っておらず、信玄のように出家した大名への評価が少々辛い傾向にあることは考慮する必要があろう。

私個人としては、信玄は仏教を深く信仰するために出家したというよりは、仏教勢力を上手く利用しようとしたという側面が大きかったのではないかという見解を持っている。

『甲陽軍鑑』にみえる名君信玄

『甲陽軍鑑』は、従来の説では江戸時代の作り話で、物語の域を出ていないとされてきた。ところが、近年になって元山梨県立大学の国語学者酒井憲二氏による、50年も前の研究が再評価され、事態は急展開を迎える。

酒井氏によると『甲陽軍鑑』の版本の時期を遡って、調査したところ原本に最も近い写本を発見。戦国時代末期に来日した宣教師が編んだ「日葡辞書(にっぽじしょ)」に使われている言葉とその写本中の言葉を照らし合わせた結果、『甲陽軍鑑』の言葉は「日葡辞書」が作られた時期よりも古いことが判明したのである。

さらに『甲陽軍鑑』末書の存在も明らかになり、その分析の結果「甲陽軍鑑」の作者が、あの名臣、高坂弾正(こうさかだんじょう)であったという説が有力になっている。

高坂は実は、農民出身で文盲であったとも言われ、部下に口述をさせて『甲陽軍鑑』を書いたというのだ。そうなると『甲陽軍鑑』は偽書であるどころか、第一級の一次資料だということになり、その記述は実に貴重である。

さて、この『甲陽軍鑑』には信玄に関する記述が多く残されている。例えば、品第六にはこんな記述がある。

───信玄がまだ若年の頃、今川家に嫁いだ姉から大量の貝殻が送られてきた際に信玄がその貝殻を数えてみると3700枚ほどであった。信玄は家臣たちを呼ぶと、その者たちに貝殻を見せ、枚数を当てさせてみたところ、あるものは5,000枚だと言い、またあるものは1万枚だと言ったという。
これを聞いた信玄は「これまでわしは戦には兵力が大事だと思っていたが、5,000人の兵を1万人に見えるように動かすことの方が大事だと悟った」と述べたという。───

また後年になって、織田信長から小袖が送られてきた際、漆箱に入っていたので試みにその箱を割ってみたところ、漆が丁寧に何層にも塗り重ねられていたという。これを見た信玄は信長の誠意は本物であると判断したようである。

智将たる信玄の慎重さがよくわかるエピソードである。

このように『甲陽軍鑑』には信玄の名君ぶりを伝える記述が多く見られるが、天下についてはどのくらい野心があったのかについての記述も見られるのは興味深い。

『甲陽軍鑑』によると、信玄は西上作戦に際して「遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり」と言ったという。

天下取りへの意欲が感じられる発言である。

局地戦である川中島の合戦に執着して、上洛への動きが遅れたことから、さして天下取りの野心が大きくはなかったという説すらある信玄であるが、この発言を見るにそうではなかったということになる。

天下への野心が少なくはないにも関わらず、川中島にこだわってしまったあたり、上杉謙信との戦における先の読み合いがよほど面白かったのであろうか。

歴史に「もし」はないが、謙信がいなかったら信玄の上洛がもっと早まったことは確実であり、京に武田菱が数多はためく光景が拝めたのかもしれない。

他の大名から見た信玄

『甲陽軍鑑』は高坂弾正の口述が基になっている、いわば身内による信玄像が垣間見れる資料である。 では、他の戦国大名は信玄についてどのような評価を下しているのだろうか。

ルイスフロイスの『日本史』には、信玄は「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったとある。 実際、信長は信玄にたびたび贈り物をして、かなり気を遣っていたことがわかっている。

史書ではないが、戦国時代を描いた宮下英樹氏作のマンガ『センゴク』では、信玄との戦をできるだけ回避しようという信長の行動が細かく描写されていて興味深かった。

『センゴク』は宮下氏の綿密な歴史研究に基づいて執筆されており、執筆に際して歴史学者の本郷和人氏の協力を得たことでも知られている。

また、『日本外史』では信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したという。

『関八州古戦録』でも同様の話が残されている。また、『松隣夜話』では信玄の死後3日間城下の音楽を禁止したとされ、理由は「信玄を敬うというより武道の神へ礼を行なうため」であったとしている。

番外編!意外な信玄像

『センゴク』の話が出たついでに、このマンガの中では少々意外な信玄像が描かれているので紹介しておきたい。

信玄が孫子の兵法に精通していたことは前にも述べたが、作中で信玄はそれを基に先を読むことを重視していたというタッチで描かれている。どちらかと言うと、毛利元就に近いタッチであるように私は感じた。

また、作中で若き日の家康は信玄を「何を考えているかわからず不気味」と評しているのも興味深い。

徳川家康が、武田信玄を尊敬し様々な面で手本としていたことは有名であるが、家康が江戸時代に神格化されるようになると信玄も神格化されるという現象が起こり、それが現在の信玄像に多大なる影響を与えているようである。しかしながら様々な歴史資料や書籍を読み解くと、意外な面が見えてくるのである。

例えば、歴史学者鴨川達夫氏の『武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像』によれば、信玄は「筆不精」で「臆病」な性格であると分析されている。

筆不精はともかく、「臆病」は武田騎馬軍団の大将信玄の勇ましいイメージとはかなりかけ離れて見える。
しかし、あの名将北条氏康も若年の頃にはかなりの臆病者であったという記述が残されているのを皮切りに、臆病であった名将は割と多い。臆病であるということはリスクを察知する能力が鋭敏ということでもあるので、「良き将とは女々しきもの」と私はとらえたい。





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