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「砥石崩れ」信玄の生涯唯一の失策だった?
──天文19年(1550年)

合戦の背景

信濃国佐久郡を平定した武田信玄は、天文19年(1550)に入り、まずは筑摩・安曇郡の攻略に取り掛かった。

小笠原長時の本拠を奪取

小笠原氏の背後にいる安曇郡・仁科氏に対して調略を行ない、同年4月頃に仁科盛康・盛政父子を帰属させることに成功すると、7月3日には甲府を出発。10日に小笠原攻略の拠点・村井城に入る。
15日夕方に小笠原氏の本拠・林城の出城にあたる乾城を攻めとったところ、深夜には本拠・林城を含めた5城が戦わずに城兵が逃亡し、島立・浅間の2城は降参したといい(『高臼斎記』)、武田軍は戦うことなく、小笠原氏の本拠を占領した。

なお、このときに安曇郡の森城城主・仁科道外が信玄のもとに出仕している。また、小笠原長時は逃亡して安曇郡の平瀬城に入ったが、のちに武田勢の侵攻を受けて没落していくことになる。

信玄は林城を破却し、その支城の深志城(=のちの松本城)を修築してこれを筑摩郡や安曇郡制圧の新たな拠点とし、19日に鍬立式を行ない、23日には総普請を開始させている。また、この深志城に譜代家老衆の馬場信春を城代として入れた。

林城攻略の背景にあるのは?

ところで何故、信玄はこうもあっさりと小笠原氏の本拠を占領できたのだろうか?

それは小笠原の家臣団の統制がとれておらず、多くの小笠原家臣が寝返ったことに起因する。武田軍は寄親・寄子制を採用して主従関係が安定していたが、小笠原軍はそうした組織制度がなく、小笠原氏と他の諸豪族との結びつきも弱かったようである。この戦いは、そうした弱みをつけ狙った信玄が事前に得意の調略などを行なっていた結果の勝利といえよう。

合戦の経過

一方で小笠原攻略をしていた頃、武田と一時和睦していた村上義清は北信で高梨政頼と戦っていた。

信玄はこれに乗じて小県郡の砥石城(上田市)の攻略を企図し、小笠原攻略をしている間、小県郡出身の真田幸綱に村上方の家臣に勧誘工作を仕掛けさせ、寺尾城の清野清寿軒や須田城の須田信頼などを武田方に帰属させていた。

村上義清の支城・砥石城は、上田市街の北東約4キロにある要害堅固な山城である。

そして8月になり、信玄はこの砥石城に挑んでおよそ1カ月ほどの攻囲戦を行なうが、結局陥落させることはできなかった。 撤退戦において大敗を喫したのである。

以下に『高臼斎記』をもとに武田軍の動きと戦いの経過をみてみよう。

  • 8月5日:武田方の先陣・長坂虎房が出発。
  • 10日:武田の足軽衆も戦闘体制で進撃し、和田城(小県郡和田村)の城兵が逃亡。
  • 19日:信玄本隊が出陣し、深夜に長窪(小県郡長門町) に着陣。
  • 24日:信玄が砥石城の偵察に今井藤左衛門・安田式部少輔を派遣。
  • 25日:重ねて大井上野介信常・横田備中守高松・原美濃守虎胤らの部将も偵察に派遣。
  • 27日:信玄本隊が長窪を出発し、海野口向ノ原に着陣。
  • 28日:砥石城に近い屋降という地に本陣を構える。
  • 29日:正午頃、信玄が自ら敵城の際まで物見に行き、戦闘開始を告げる矢入れを行なう。
  • 9月1日:村上方の属将・埴科郡の清野氏が武田方に降る。
  • 3日:武田軍が城際まで本陣を寄せる。以後、数日間しばらく対峙。
  • 9日:武田軍が夕方より総攻撃を開始。しかし、堅固な敵城を陥落できず、膠着状態に。
  • 19日:高井郡の須田新左衛門が武田方に降る。
  • 23日:朝に清野氏から信玄に「村上義清が高梨政頼と和睦し、両者が合同で埴科郡寺尾城を攻め始めた」との報が入る。
    そこで清野氏支援のため、寺尾城の救援に真田幸隆や勝沼信元らを向かわせる。
  • 28日:寺尾城から村上・高梨軍が退却したとの報が信玄のもとに入り、真田らが深夜に帰陣。
  • 30日:信玄は軍議を開き、撤退作戦を話し合う。
  • 10月1日:午前6時頃から撤退を開始。 村上勢が追撃してきたため、武田殿軍は終日戦い、午後6時頃にようやく敵を退ける。
    その夜は望月の古地に陣を取って宿泊。終夜雨。
  • 2日:信玄は大門峠を越えて諏訪に入り、夕刻湯川(茅野市) に着陣。
  • 3日:信玄は諏訪上原城で戦争の後始末に関して衆議を聞き、諸方へも書状を遣わす。
  • 6日:信玄、上原城を出発。
  • 7日:信玄、甲府へ帰国。

以上が砥石城攻めの流れであるが、10月1日の撤退戦の際には、武田勢は横田高松や渡辺出雲守ら主だった者千余人が討ち取られ、甚大な損害を受けている。
このときの事が "砥石崩れ" と呼ばれ、信玄の大失策として後世に語り継がれている。(「甲陽軍鑑』)

その後の影響

砥石崩れによって勢いづいた義清は、すぐに安曇郡の平瀬城に進出し、小笠原長時と連合して武田方の深志城攻略をもくろんだようだ。

10月21日に義清の動向を知った信玄は、23日に中下条(甲斐国中巨摩郡敷島町) に出陣しており、一方の義清は衝突を避けようとしたのか、一転して軍勢を安曇郡から引き上げて佐久郡へ侵入。
11月には小諸に移って野沢・桜井山城に放火して回っている。信玄も14日には甲信国境に位置する若神子まで出馬している。

一方、深志城攻略をねらっていた小笠原長時は、義清が佐久郡へ向かったためか、野々宮(南安曇郡梓川村) での交戦を最後に家臣・二木重高の進言に従って二木氏の中塔城(南安曇郡梓川村中塔)に籠城したという(『二木家記』『小笠原系図』)。





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