丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

義信事件と外交戦略の転換(1565年)

永禄9年(1565)も引き続き、信玄は西上野の侵略を行ない、北条氏康と連携して上杉謙信を苦しめた。

同年2月には、信濃国の諏訪大社と新海大明神に、願文をかかげ、西上野の5城(箕輪・惣社・白井・岳山・尻高)の攻略を祈願し、即日に西上野に出陣している。
また、5月にも再び佐久郡から上野国安中口に出陣したらしく、この頃には北条氏も呼応して下総国の関宿を攻め込んでいる。

この間、上野の諸将らは謙信に対し、しきりに支援を求めていたが、当の謙信は越中一向一揆に牽制されて身動きが取れなかった。 というのも、信玄が事前に本願寺顕如と謀り、越後を越中一向一揆勢に攻めさせようとして、謙信を背後から牽制していたからである。

義信事件

一方、武田家では、信玄と嫡男義信が不和となっており、不穏な空気が流れ始めていた。

第四次川中島合戦以降、武田家の戦略をめぐって対立するようになり、やがて信玄父子は不和になっていった。 さらに義信は、異母弟・諏訪勝頼(のちの武田勝頼)が高遠城主に就任したことへの不満もあったという。

同年7月には、義信とその傅役であった宿老の飯富虎昌らがたびたび密談しているのを、信玄の目付役が察知したという。 そして、義信から飯富虎昌に宛てた密書をが証拠となり、見事に露呈してしまったらしい。
しかも、その密書を入手して信玄に差し出したのは、虎昌の弟・飯富昌景(のちの山県昌景)であった。

彼らはクーデターを企てていたのだ。

信玄、用心深くトイレに籠もる?

こうした動きに対し、用心深い信玄は、御閑所(=トイレのこと)で政務をとったとの逸話がある。

このとき、躑躅ヶ崎館内の御閑所を京間の6畳敷きに改造したといい、床下には樋(=水や湯を離れたところへ送る長い管)を設置して、御風呂屋の水で排他物を流すようにし、常に香が焚かれていた。

これが日本ではじめての水洗トイレといわれ、信玄はここに籠もり、3人の側近に身辺の警護を命じて政務をとったという。なお、側近の1人が先に登場した飯富昌景であった。

信長との同盟

そうした中、9月初旬頃、織田信長が織田忠寛を使者として信玄のもとに同盟を申し込んできた。

内容は信玄の四男・諏訪勝頼に信長の養女を娶らせるという婚姻同盟の交渉である。この頃の信長は、信濃の西隣に位置する美濃国の攻略をすすめていたため、のちの武田領との隣接を考慮してのこととみられる。

この婚姻には、義信や飯富虎昌らを筆頭に武田家臣らの反対があった。

というのも、義信の正室は今川義元の娘であり、信長は義元の仇であった。つまり、義信はかねてから継続している武田・今川・北条の三国同盟を維持を望んでおり、外交戦略を転換して勢力拡大を図ろうとする信玄とは相容れなかったのだ。
しかし、結局、信玄は信長との同盟を受け入れた。

未遂に終わったクーデター

なお、23日付けの信玄が小幡源五郎に宛てた書状の中に「父子の仲は別条ない」とあることから、飯富虎昌らに首謀者として罪を着せる形で事態の収拾を図り、義信を処罰していないことがわかる。

ちなみに翌11月には、高遠城の勝頼のもとに、信長の養女が輿入れしている。

こうしてクーデターは事前に防がれ、家中での混乱や動揺はほとんど起こらなかった。だが、以後も父子の溝は埋まらかったようだ。
やがて信玄は、家臣らに起請文で忠誠を誓わせて家中の動揺を未然に防ぎ、義信を甲府の東光寺に幽閉して廃嫡するのである。





関連ワード


おすすめの記事

 PAGE TOP