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「香川親和」元親二男。後継者に指名されずにショックだった?

香川親和は長宗我部元親の二男である。一時は四国全土にまで勢力を拡大した長宗我部一族であるが、戸次川の戦い以降、家中は混乱の渦に巻き込まれてしまう。そうした中で彼の生涯はどのようなものだったのだろうか?

讃岐の名家を継ぐ!

香川親和は永禄10年(1567年)長宗我部元親の二男として誕生。長宗我部氏は土佐国(高知県)の一部を治める豪族だったが、天正3年(1575年)には父元親が土佐国を統一し、その後は四国平定を目指して残る阿波(徳島県)・伊予(愛媛県)・讃岐(香川県)の三国へ侵攻していくことになる。

天正6年(1578年)、長宗我部氏による侵略を受けはじめた頃の讃岐国は、これまでの三好氏による支配がすでに崩壊し、香川・香西・十河ら土豪の割拠状態にあった。
香川氏はかつて三好政権に従属していたが、織田信長の台頭によって三好から離反し、信長の傘下になったとみられる。長宗我部も香川と同じく、反三好・親織田の関係にあったためか、翌天正7年(1579年)には長宗我部氏と香川氏が同盟を締結。このとき13歳だった親和は香川之景の養子として送り込まれて香川氏を継ぎ、香川五郎次郎と名乗ったのである。

信長と対立する長宗我部

四国平定に向けて徐々に勢力を拡大していく長宗我部元親であったが、友好関係にあった信長が ”待った” をかけてきた。畿内を統一する前の信長は、味方欲しさに長宗我部と友好関係を維持していたが、室町幕府や三好氏を倒して幾内を掌握し、さらに本願寺勢力とも和睦して天下統一が現実味を帯びてきた織田政権にとって、四国で勢力をふるう元親の存在が邪魔になってきたのである。

天正8年(1580年)、信長は元親に対して、土佐と阿波の半分を領地として認めることを条件に臣従を迫った。しかし、元親は苦労して獲得した領地を手放すことに納得できず、この要求を拒絶する。

信長の死と秀吉の統治

そして両者の関係が破綻すると、天正10年(1582年)の5月、信長は三男の織田信孝を総大将として長宗我部征伐の準備に入った。絶対絶命の危機を迎える元親だが、同6月2日には本能寺の変が勃発し、信長が家臣の明智光秀に討たれたことで、この窮地を免れることになった。
その後、元親は畿内の空白時期を利用して再び四国平定のために軍事行動を開始。同8月、讃岐方面では親和率いる1万余の軍勢が十河城を包囲している。

一方、信長死後の織田家は、重臣の羽柴秀吉と柴田勝家による覇権争いとなり、長宗我部家は勝家派に加担する。しかし、元親に運はなかったようだ。決戦となった天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ、今度は秀吉に睨まれることになる。元親は秀吉との対決を見据えてか、親和を讃岐国の天霧城に入城させている。

ここで一旦は秀吉を討つ絶好の機会が訪れている。天正12年(1584年)に秀吉と信長二男・織田信雄の関係が冷え込んだことで、秀吉 vs 織田信雄・徳川家康連合による小牧長久手の戦いが勃発。元親は当然のごとく織田・徳川連合に加担しているが、結局、織田信雄が単独で降伏したことで思惑どおりにはいかなかった。 そして、翌天正13年(1585年)には秀吉による四国征伐が開始。長宗我部方は圧倒的な兵力差に対抗できず、あっという間に降伏。結局、阿波・讃岐・伊予の三国は没収となり、土佐一国のみが安堵されることになる。讃岐が没収されたことで香川氏も改易され、親和は天正14年(1586年)に土佐への帰国を余儀なくされている。親和20歳のときであった。

後継ぎになれなかった二男

秀吉が四国平定後まもなくして九州征伐へと乗り出すと、長宗我部氏はこの戦いに仙石秀久を総大将とする先発隊として駆り出され、父元親は嫡男の長宗我部信親と共に従軍することになった。しかし、仙石秀久が島津軍の戦法にまんまとはまって大敗、退却戦の最中に元親はかろうじて生き延びるものの、信親は戦死することに。(戸次川の戦い

信親の死により、長宗我部家の後継者候補は二男の親和に巡ってくるはずであった。実際に秀吉は元親に朱印状を出して親和を後継者とするように取り計らっている。しかし、元親はこれに従わず、二男の親和や三男の津野親忠を差し置いてまで四男の長宗我部盛親を後継者に指名したのである。

その後まもなく、世子になれなかった親和は病気となり、天正15年(1587年)に没している。なお、死因については、家督相続ができなかったショックによるもの、断食して命を絶った、毒殺されたなど、複数の説が存在している。





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