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「長宗我部盛親」元親四男ながら、家督後継者に。のちの大阪の役の主役の一人。

長宗我部盛親の肖像画
土佐の英雄・長宗我部元親の後継者である長宗我部盛親は、兄2人をおいて家督を継いだ。求心力がともなわないまま迎えた関ヶ原の戦いで敗れ、土佐を追われたのち、大坂の陣で復活してのちに大坂牢人五人衆の一人として語り継がれることになる。そんな盛親の数奇な生涯を見ていく。

盛親、後継者となる

盛親の父・長宗我部元親は、その父である長宗我部国親のあとを受けて土佐一国を統一し、さらに勢いを駆って四国制覇にまで至るが、ほぼ同時に豊臣秀吉による四国征伐を受けて敗退。土佐国のみに押し戻されて豊臣政権に服従した。
元親には長宗我部信親という嫡男がいた。しかし、天正14年12月(1587年)に秀吉の命令で出陣した九州島津家との戦い(戸次川の戦い)に敗れ、信親を戦死させてしまう。ここで長宗我部家の跡継ぎ問題が起こり、騒動の末に四男だった盛親が後継者となった。二男には香川親和、三男に津野親忠がいて、それぞれ有力な後継候補だったものの、元親の一存で四男盛親が推されたのだった。

この直後、二男親和は死去。病死とも憤死とも毒殺ともいわれ、長宗我部氏の禍根となって残ることとなる。

盛親、関ヶ原を迎える

盛親は長宗我部元親の四男として天正3年(1575年)に生まれた。関ヶ原の戦いのときが25才、大坂の陣のときが40才ほどとなる。兄信親の死後に後継者となったが、その経緯がお家騒動に近いものだったのと、まだ若年だったために、周囲からなかなか認められなかった。
最も重要だった豊臣家との関係においてもそうで、一国の大名の後継者でありながら官位をもらえないという中途半端な状態のまま、慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ってしまった。 折悪しく、翌慶長4年(1599年)には父元親も逝去。この年は、秀吉の没年と慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の年の中間にあたる。混乱した情勢の中、日本中の大名が生き残ろうと必死に画策していた時期だ。そんな時に、求心力を確立できていない盛親が当主を継がなくてはならなかったのは、長宗我部氏にとって不運だった。

そして、関ヶ原の戦いが勃発する。盛親は徳川家康の東軍に味方する腹積もりだったとも言うし、豊臣政権で関係の深かった増田長盛が西軍に付いたことから当初から西軍側だったとも言われる。ともあれ、実際の盛親は西軍武将として行動し、伏見城や安濃津城の戦陣を経て関ヶ原に布陣した。

盛親、牢人となる

天下分け目の関ヶ原で、盛親は何もしていない。家康の本陣を扼する南宮山に布陣しながら、最後まで戦いに参加しなかった。同じ南宮山に陣した吉川広家が東軍に内通しており、兵を動かさなかったため、長宗我部軍も身動きが取れなかったのだ。

命からがら土佐に逃げ延びた盛親だったが、戦後の論功行賞で土佐は山内一豊に与えられ、長宗我部氏は改易される。盛親は徳川四天王のひとり井伊直政を通じて家康に取りなしを図ったものの、盛親の家督継承に不満を持っていた家臣が一揆を起こした失政が問われ、牢人の身になった。この混乱の中で盛親は、兄の津野親忠を殺害している。後継者を巡る騒動から十余年が過ぎてもなお、長宗我部家の求心力は定まっていなかったことが分かるだろう。

浪人の身となった盛親は、慶長6年(1601年)には京都伏見に移り住み、数年に渡って復帰嘆願の運動を続けた。この頃の盛親については良質な史料が少なく、慶長15年(1610年)に頭を丸めて大岩祐夢と名を改めたことが分かる程度である。暮らしは旧家臣からの援助に頼っていたらしい。京都で寺子屋の師匠をしていたとも伝わるがはっきりせず、ただ慶長17年(1612年)頃から京の上立売に住んでいたのは判明している。

盛親、再起する

関ヶ原から14年が過ぎ、過去の人物になっていた盛親に再起の時が訪れた。大坂の陣である。四十の働き盛りの身を興し、大坂方からの誘いを受け、わずか6人で京都を脱出し大坂城に入った。

痩せても枯れても元は一国の大名だった盛親の元には、長宗我部家の旧臣1000人が集結する。大坂城の豊臣秀頼と淀殿は盛親の威勢を頼み、他の武将と共に大将に抜擢した。真田信繁に後藤基次、毛利勝永、明石全登と盛親を合わせた彼らは、のちに「大坂牢人五人衆」と呼ばれることになる。

総数10万の豊臣軍の一翼を担うことになった盛親だったが、浪々の身が長く、戦場経験は決して豊富ではなかった。しかし、慶長19年(1614年)11月に始まった冬の陣では、真田幸村の名でも知られる真田信繁隊と合力し、徳川側の攻勢を撃退している。同12月4日の真田丸の戦いでは、かつて家康への取りなしを依頼した井伊直政の息子直孝の軍勢と激突し、大きな損害を与えた。

盛親、最期を迎える

冬の陣が講和で終わると、策略で上回る徳川方が大坂城の堀を埋めてしまう。再び開戦となった夏の陣で、盛親たちに残された戦術は野戦しかなかった。慶長20年(1615年)5月の八尾・若江の戦いは、豊臣方の実質的な最後の抵抗で、盛親の部隊は藤堂高虎軍と激闘に及ぶ。藤堂軍に多大な犠牲を強いるも、物量で押し切られ盛親隊は壊滅。終戦を大坂城内で迎えた盛親は、京都八幡の地に逃れて潜伏していたところを捕えられ、京都市中を引き回されたあと処刑された。5月15日であった。

京の六条河原で斬首される前のエピソードが残っている。敗戦後に自ら腹を切らなかったのは見苦しいと責められた盛親は、「命は惜しい。命あればこそ家康を討つこともできる」と語り、出家するからと命乞いをしたという。また別の逸話では、「大将は軽々に死ぬべきでない。機会があれば再起を図るのだ」と話したとも伝わっている。

数奇な生涯が語り継がれている長宗我部盛親

父の元親から家督を継いだ長宗我部盛親は、関ヶ原で敗れて大名の地位を失い牢人の身となるが、大坂の陣で再起し徳川方と激戦を繰り広げた。最期は敗れて処刑されるも、大坂牢人五人衆の一人に数えられ、その数奇な生涯が語り継がれている。





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