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真田一族ゆかりの地を一挙に紹介!──居城・古戦場・墓所など

信濃国小県郡(長野県)の国衆の一角にすぎなかった真田一族だが、特に城関連における「ゆかりの地」は結構多い。それは自領を守り抜くために武田家臣時代、そして武田滅亡後においても主君を次々に替えて戦いまくったからであろう。
数多くある真田の史跡で主要なものを以下にピックアップしてみた。

【真田ゆかりの地 関連マップ】

真田氏本城

真田氏本城跡

真田一族の本拠。真田一族発祥の地である真田郷にあり、その規模や位置から真田氏本城跡(長野県上田市真田町長)と呼ばれている。真田昌幸天正11(1583年)に築城された上田城を本拠にする前は、この城が真田氏の居城であったと考えられている。


砥石城

砥石城(戸石城)跡

長野県上田市上野に位置する砥石城(といしじょう)は、真田郷に隣接しており、真田氏の外城として築城されたという。

天文10年(1541年)、甲斐の武田氏や信濃の村上・諏訪氏の連合軍の侵略で、真田幸隆が真田郷を追われると、以後は村上義清の支配下となって大改築が行なわれたらしい。
天文19年(1550年)武田信玄が大敗した "砥石崩れ" の舞台としても有名な同城。だが、翌年には信玄の命を受けた幸隆が、調略によってあっさりと陥落させている。


上田城

上田城

上田城(長野県上田市)は、真田昌幸が徳川軍を2度も撃退した上田合戦の舞台となった城である。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦ののち、昌幸・幸村父子が高野山へ追放となると、徳川家によって取り壊され、堀も埋められた。


岩櫃城

岩櫃城の堀切

真田幸隆が奪取して以来、真田氏の沼田領攻略の重要拠点となった城であり、現在の群馬県吾妻郡東吾妻町原町にある。 沼田領問題で真田氏と北条氏が敵対後、真田は北条氏邦らにたびたび攻められたがこれを凌いでいる。慶長19年(1614年)には徳川幕府の一国一城令によって廃城となった。


沼田城

沼田城跡

沼田領問題の舞台となった城。沼田領問題とは、天正10年(1582年)天正壬午の乱の講和の際、徳川家康が「沼田領=北条のもの」という条件を受け入れたことで生じた領土争い問題である。当時、家康に従属したばかりの真田昌幸が、この条件を不服として北条に沼田領を引き渡さずにいたため、たびたび真田・北条氏との間で争奪戦が繰り広げられた。
やがて天下人になる豊臣秀吉が介入した天正17年(1589年)の沼田裁定では、一旦北条氏のものとなるが、翌年の小田原征伐で北条が滅亡すると、真田信幸に与えられた。


名胡桃城(なぐるみ)

名胡桃城の石碑

北条滅亡のきっかけである名胡桃城奪取事件の舞台となった城。天正17年(1589年)、秀吉による沼田裁定の結果、まもなくして北条氏が真田方の名胡桃城を奪い取るという名胡桃城奪取事件が起きた。名胡桃城は沼田裁定のときに北条方のものとされた沼田城の目と鼻の先にあった。しかも高台にあったために沼田城を見渡せた。
これがきっかけで秀吉は北条討伐を決意し、翌年の小田原征伐によって北条は滅亡している。


真田庵

善名称院

※出所:by KENPEI(2008/11/22)-善名称院 / CC-BY-SA 3.0 Adapted.)

昌幸・幸村父子が九度山蟄居となった際に暮らした屋敷跡。真田庵は「善名称院(ぜんみょうしょういん)」といい、昌幸・幸村父子が九度山蟄居の際に暮らしていた屋敷跡と伝わる場所(諸説あり)に、寛保元年(1741年)に大安上人によって創建されたお寺であり、和歌山県の史跡にも指定されている。

六文銭の紋が刻まれた門を進む先に本堂があり、本尊には地蔵菩薩、そして境内には開山堂・土砂堂・真田宝物資料館・真田昌幸の墓・与謝蕪村の句碑などがある。

●真田宝物資料館

土蔵作りの資料館。真田昌幸・幸村父子の九度山蟄居の生活をテーマに、幸村が愛用したとされる槍先・鎧・兜などの武具や書状、肖像画、また、当時の真田家の生活を支えた真田紐や高野紙製造用具などが展示。その他、大安上人に関するものも展示されている。

  • 所在地:和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
  • 入館料:200円(要予約:団体でご住職の案内を希望される場合300円)
  • 開館時間:午前9時~午後4時(年末年始以外無休)
  • アクセス:南海高野線・九度山駅より

●真田地主大権現

真田家の宝物である毘沙門天と真田三代の御霊が合祀されている。あるとき、忿怒の相をした真田昌幸の神霊が現れたため、大安上人は昌幸の霊をこの地の大権現の神様として崇めたところ、再び昌幸の霊が現れ、この地の主として永くこの場所を守ると約束したと伝わっている。その場所がこの真田地主大権現。

●真田古墳

真田古墳
【真田古墳】

※出所:by 小倉商事(2015/5/20)-善名称院 / CC-BY-SA 4.0 Adapted.)

真田庵の東約170mに、昔から地元の人々に「真田の抜け穴」と伝わる穴がある。この穴の向こうは大坂城に続いており、かつての真田幸村が大阪の陣の際にこの抜け穴を使って脱出したという伝説があったが、実際は古墳時代後期(4世紀頃)の古墳であることが判明している。しかし、真田の伝説が残る場所として真田古墳と名付けられている。





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