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「真田×上杉」景勝の代に従属、人質の幸村は厚遇?

越後上杉家と真田一族との歴史・各人物との関わりなどを解説

「真田×上杉」の歴史

川中島合戦で知られるように、上杉謙信武田信玄が敵対関係にあった時代は、武田配下の真田家と上杉家も当然敵同士であった。上杉家は、真田幸村の祖父にあたる真田幸隆と、第四次川中島の戦い(1561年)や上野国の吾妻郡で争っている。

天正10年(1582年)織田信長の死後、旧武田領を巡る天正壬午の乱では、謙信の跡を継いでいた上杉景勝が北条氏や徳川氏と争っている。このとき、当時の真田当主・昌幸が自領を守るために、織田家に見切りをつけて上杉家の従属下に入るが、その後は情勢の変化に応じて北条氏→徳川氏へと次々に転じていった。

乱の終結後は、その和睦条件を巡って真田と北条との間に沼田領問題が発生。これがきっかけで徳川家康と不和になった真田昌幸が再び上杉家に接近してくると、上杉家は昌幸の申し入れを受けて、真田一族を従属下に置いて支援することにした。このとき、景勝は真田幸村を人質として保護下に置いている。

その後、羽柴秀吉によって事実上の豊臣政権が樹立されると、上杉家・真田家ともに豊臣政権に降ったことでその従属関係は解消されることになった。

以下に上杉と真田の人物相関を示す。

上杉家の将

上杉景勝アイコン

上杉景勝

謙信なき後、上杉家を守った男

謙信死後の家督争いで勝利後、織田軍の侵攻や家督争いの後遺症で一度は滅亡を覚悟した。
信長横死後は武田旧領をめぐる争い(天正壬午の乱, 1582)に参戦し、北信濃・川中島4郡を確保。この乱では真田昌幸が従属したとみられているが、北条家が北信濃へ進軍してくると昌幸はすぐに北条家、のちに徳川家に転属している。

天正13年(1585)には徳川方だった真田昌幸が再び接近、景勝は不信感をあらわにするも、幸村を人質として迎え入れて真田家を再度支配下に置き、幸村を厚遇している。
その後、景勝は翌天正14年(1586)には天下統一目前にせまった豊臣秀吉に臣従したが、このとき、真田も豊臣家に臣従して秀吉への人質として幸村が差し出されたため、景勝は激怒したといわれている。

<a href='https://sengoku-his.com/kenshin/detail/579'>直江兼続</a>アイコン

直江兼続

上杉家を支えた景勝の右腕

幼少期より景勝に仕え、景勝が上杉家の家督を継いだ後は、執政を担って景勝を支えた。幸村が上杉家で人質時代を過ごした際には、景勝や兼続から上杉の「義」の教えの影響を受けたとされている。ただし、兼続と幸村が接触していたことのわかる確かな史料はないようだ。

関ヶ原での敗戦後は、徳川に忠誠を誓い、上杉家を守るために本多正信と交流を持つなど家康との融和に奔走した。


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