「橋本左内」上医は国を医す!? 時代の先駆者であり、松平慶永の懐刀

コロコロさん
 2021/04/04

橋本左内の像(福井市立郷土歴史博物館蔵)
橋本左内の像(福井市立郷土歴史博物館蔵)

医者の出身でありながら、教育者、政治家として名を成した男がいます。 福井藩の藩医であった橋本左内(はしもと さない)その人です。

左内は医師となり、蘭学との出会いを果たします。藩校の教育者となってからは、西洋科学の導入に邁進。後進を育てるために学校制度を整備しました。藩主の腹心となった左内は、やがて一橋派として活動を始めます。しかしそこには大老である井伊直弼が立ちはだかります。

左内は医者からいかにして、政治への道へ進んだのでしょうか。橋本左内の生涯を見ていきましょう。

才気溢れる少年

藩医の子として誕生

天保5(1834)年、橋本左内は越前福井藩の藩医・橋下長綱の長男として、福井城下の常磐町で生を受けました。母親は小林静境の娘・梅尾と伝わります。

一族は足利氏の流れを汲む桃井氏に連なります。祖先が橋本姓に改姓して以降、名乗り続けていました。

左内は幼い頃からすでに医師としての教育が始まっていました。 弘化2(1845)年には福井藩の医学校である「済生館」に入塾。ここで漢方医学を学んでいます。わずか十二歳のときでした。

この頃、左内は幼いながらに大物の片鱗を見せています。

ある日のこと、同塾の子供が手に怪我をしました。日頃から左内を目の敵にする同塾の子供がそこで発言します。子供は左内に「医者の子供ならば治してみせろ」と詰め寄ります。
左内は平然とした様子で火箸を持ち、子供の傷口に当てようとしました。たまらずに塾の師範が止めに入ります。 左内は「火傷の治療なら知っておりますので」と平然として答えたといいます。

物怖じしない左内の性格は、幼い頃には培われていたようです。

しかし決して冷たい性格だったわけではありません。左内はよく他人のものまねを得意としていました。後には西郷吉之助や猫のなきまねをして、周囲を笑わせています。

学問の世界に生きながらも、茶目っ気やユーモアを忘れない。そういう左内の人となりも伝わる逸話です。

十五歳にして『啓発録』を著す

嘉永元(1848)年、父・長綱は奥医師に取り立てられます。これは奥に住んでいる藩主やその家族の診療を行う立場でした。長綱の地位は、藩において医師として最高の位置です。自然、左内は自らの医者としての未来を強く意識していたと考えられます。

同年には、十五歳の左内は『啓発録』を残しています。左内はすでにここで生き方の指針を定めていました。 左内は、去稚心(幼い心を去る)、振気(気を振う)、立志(志を立てる)、勉学(学ぶ)、択交友(交友を選ぶ)の五つにそれを集約しています。

左内には目的意識がありました。先人の言葉や行い、心の在り方を学び、自らを奮い立たせるために書いたとされています。

遊学で才能を磨く

大坂の適塾に入る

翌年の嘉永2(1849)年、左内は大坂の適塾に入塾。蘭方医でもあった緒方洪庵に師事します。 緒方洪庵は天然痘治療に貢献した医師で、後に日本近代医学の祖と称されたほどの人物です。

適塾は後に福沢諭吉(教育者)や大村益次郎(兵学者)、高松凌雲(日本における赤十字運動の先駆者)を輩出。いわば幕末や明治維新の人材の宝庫とも言うべき場所でした。左内も適塾で多くの俊英と机を並べて学び、多くの薫陶を得たものと思われます。

しかし大坂では、それほど多くの時間を過ごすことは出来ませんでした。 嘉永5(1852)年、父・長綱が病に倒れます。左内は大坂から福井藩に帰国し、父の代わりに医師として患者の治療に従事しています。

同年に長綱は亡くなり、左内は藩医を拝命。表医師として外科の治療に邁進していくこととなります。

江戸への遊学と蘭学修行

嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に開国を求めるという事態が起きます。 外圧への脅威と幕府権威の失墜は、時勢を大きく揺り動かしていきました。

しかし時局が流動化する中でも、左内の向学心は決して満たされてはいませんでした。 より多くの医術を学ぶため、安政元(1854)年に江戸に遊学に赴きます。

左内は蘭学者・坪井信良の塾に入塾して蘭学を学んでいます。さらに杉田成卿に蘭方医学を学ぶなど、特に当時の最先端医学である蘭方医学を熱心に学ぶようになりました。

左内は学問に触れつつも、江戸で多くの人材と出会いを持っています。 水戸藩の藤田東湖をはじめ、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)、熊本藩の横井小楠など、錚々たる面々と親交を結んでいます。

教育者として

藩医から政治の世界へ

同時代の人々は左内を高く評価していました。 幕府の勘定奉行を勤めた川路聖謨は「弁論、才知、天晴なる事共にて殆ど辟易せる由」と称えています。

水戸の武田耕雲斎は「東湖の後又東湖あり」と絶賛、横井小楠は「彼を以って鼂錯(中国前漢の政治家)に似たり」と、その才能に一目置いていました。

左内は次第に政治の世界に傾倒。医学の世界から離れていきたい心が芽生えていきます。

安政2(1855)年、左内は藩医の職を解かれることとなりました。同時に御書院番を拝命し、藩主・慶永の側近として取り立てられています。これは左内の気持ちを組んだ福井藩士・中根雪江(藩主・松平慶永の腹心)らの力添えによるものでした。

藩校を改革する

安政4(1857)年には、福井藩の藩校・明道館において御用掛・学監同様心得となっています。 当時の明道館には左内をはじめ八名の学監がいたようです。左内は心得(一時的な役職)として、その最後尾に位置していました。

しかし心得とはいえ、左内には藩主の後ろ盾があります。その在任中には明道館において大きな変革を行いました。

左内は明道館の内部に洋書習学所と惣武芸稽古所を設置します。 洋書習学所では、蘭学教育を導入。かつての恩師である坪井信良が教授に任じられています。

ここで学べたのは、世界の最先端である西洋の学問です。天文学、物理学、測量学、地学といった学問を身につけることが出来ました。蘭学を学ぶことで、科学の技術的・実用的な面を取り入れようとしていました。

一方の惣武芸稽古所は、家中の十五歳以上の者を集めて武芸稽古を行うものでした。

それまで藩士たちは、それぞれの武芸師範の家で個別に指導を受けていました。 その武芸を一箇所に集めて、総合の教授の規則を定めています。左内はこれによって文武一致の実をあげようと目論んだものです。

左内は藩内においても、先駆的な教育者としての立場を確立していきました。同年、左内は江戸詰を命じられて赴任。御内用係を拝命して、福井藩の政治に影響力を及ぼす立場となりました。

安政の大獄で最期を迎える

将軍継嗣問題へ介入する

左内は国政の問題にも積極的に関わっていきます。

当時は将軍・家定の後継者を巡る将軍継嗣問題が起きていました。主君・慶永の一橋派と井伊直弼らの南紀派は幕府内で政治的対立を深めていたのです。

慶永は一橋徳川家の徳川慶喜を擁立。左内も運動を助けて、幕政改革を訴えていきます。 左内が構想したのは、慶喜の下での雄藩の連合による政治体制でした。さらに西洋技術の導入と積極的な通商により、富国強兵を目的としていました。

安全保障においては、地政学的観点からロシアとの同盟を提唱。薩摩島津斉彬と並ぶほどの世界的な視点に立っていました。

しかし左内の運命は、突如として暗転します。

安政5(1858)年、幕府は日米修好通商条約に勅許なしで調印。それを批判して、主君慶永らは江戸城に不時登城して大老の井伊直弼を糾弾します。しかし逆に不時登城の罪で、将軍・家定と井伊大老から隠居謹慎を命じられてしまいました。

安政の大獄で処刑される

井伊直弼は一橋派の弾圧を開始。世にいう安政の大獄の始まりです。

一橋派の多くが処分を受ける中、追求の手は左内にも及びます。 左内は親類である朧勘蔵の屋敷に幽閉の上で謹慎。そこで将軍継嗣問題に介入した疑いで尋問を受けています。

取り調べの際に左内は「私心ではなく、藩主の命令」と主張。これが井伊直弼の怒りを買うこととなりました。 当時の倫理は、朱子学を中心としたものです。藩士は藩主をかばうものという考えがありました。

当初の予想では、左内の処罰は遠島で済むはずでした。しかしこれが井伊によって重く罰せられることとなります。

安政6(1859)年、左内は伝馬町牢屋敷内において処刑されました。享年二十六。戒名は景鄂院紫陵日輝居士。墓は南千住の回向院にあります。

左内は高潔な性格だったと伝わります。彼が投獄された牢獄においては、牢名主が代わってやりたいと思ったほどの人間でした。

しかし同時に、野心家な一面を秘めていました。左内は並外れた見識と行動力をもって、名を残したいという思いで活動しています。 結局はその野心が、左内の命を奪いました。

左内の死後も、友人である西郷隆盛は彼を思い続けていました。 西郷が西南戦争で死ぬ時、最期まで持っていた鞄には、左内からの手紙が入っていたと伝わります。

明治24(1891)年には、左内の功績を讃えて正四位が追贈されました。


【主な参考文献】

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 ...


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