兄も海軍軍人となったことを受け、1809年にアメリカ海軍に士官候補生として入隊。わずか14歳と9か月という若さでのことでした。
1812年に米英戦争に従軍し、1814年にはニューヨークの商人ジョン・スライデルの娘ジェーンと結婚しています。1820年にアフリカ西海岸と地中海艦隊へ、1830年にロシアへ派遣されるなど世界各地で艦隊勤務を経験。1833年にはブルックリン海軍工廠の造船所長に就任します。
1837年にアメリカで2隻目となる蒸気フリゲート・フルトン号を建造し、同年海軍大佐に昇進したペリーは同艦の初代艦長となります。
1840年にはブルックリン海軍工廠の司令官に就任し、代将の地位に昇りつめます。この代将という階級は現代においては耳慣れないものですが、当時のアメリカ海軍での最上位階級は大佐であり、いまでいう「提督」相当の位置付けだったようです。
1843年にはアフリカ艦隊司令長官就任、1846年に米墨戦争が勃発すると蒸気軍艦・ミシシッピ号の艦長兼本国艦隊の副指令として参戦。メキシコ湾においてベラクルス上陸作戦を指揮し、のちに本国艦隊の司令長官も務めました。
アメリカ海軍の指揮官として要職を歴任し、近代科学技術の粋を集めた蒸気軍艦による艦隊をつくりあげたペリーは、「蒸気船海軍の父」と呼ばれています。
この際には具体的な協議の場は設けられず、開国要求を行ったのみでした。幕府からは回答に1年の猶予を求められ、湾の測量を行ったのち琉球を経由して中国で待機することになりました。
その間、アメリカ本土ではフィルモアからフランクリン・ピアースへと大統領が代わり、駐清米国公使とは太平天国の乱への評価や日本開国優先論を巡って対立しました。
ロシアのプチャーチンからは対日共同行動に関する提案がありましたがこれを拒否、列強諸国がこぞって日本を標的としていることに懸念を示しています。
1854年に3隻を加えた7隻艦隊を編成して香港を出航、同年2月13日(旧暦では嘉永7年1月16日)に横浜沖に肉薄し、早期開国を改めて要求しました。この動きに対して幕府は3月31日(旧暦3月1日)、神奈川においてついに日米和親条約を締結するに至りました。
およそ200年にもおよぶ鎖国状態にあった日本の開国に成功したペリーは、その後琉球・那覇に寄港。琉米修好条約を締結しました。
これらの任務を果たして艦隊は香港へと向かい、ペリーはそこで本国への帰還を申請。艦隊指揮権を委譲し、同年9月11日に英国船に便乗して西回りルートの海・陸路で帰国の途に就きました。
ニューヨークへの到着は翌1855年1月12日のことで、英雄としての名声を不動のものにしました。
同月22日にミシシッピ号が東回りルートでニューヨークへと帰還。その船上において24日、ペリーの東インド艦隊司令長官の退任式が挙行されました。
約46年にもおよぶ海軍軍人としてのキャリアでした。
気象学者のウィリアム・レッドフィールドに日本遠征時の観測データを提供するなど、気象学分野の研究にも貢献しました。彼が執筆した『ペリー艦隊日本遠征記』にはレッドフィールドが著した太平洋の嵐に関する研究が収録されています。
かねてよりリウマチや通風、アルコール依存症などを発症して健康がすぐれなかったペリーは、1858年3月4日、ニューヨークで63年の生涯を閉じました。その魂は生まれ故郷であるロードアイランド州の、アイランド墓地に眠っています。
余談ながら、アメリカ海軍の艦船には歴代大統領や軍人らの名が与えられますが、意外なことに21世紀になるまで「ペリー」の名が用いられることはありませんでした。
初めて「マシュー・ペリー」と命名されたのは2010年に就役したルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦の9番艦で、この艦は2011年の東日本大震災における救援活動にも参加しました。
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