「阿部正弘」200年の鎖国を終わらせた男!早逝が惜しまれる開国派老中の事績

 およそ260年の長きにおよぶ武家政権を実現した徳川幕府。その間には大きな戦がなかったとされる時代で、世界史的にも稀有な事例として評価されています。

 しかし一方で、長期間の鎖国政策や中央集権による人材の偏りは、組織の硬直化と近代化への出遅れを招いた面もありました。幕末には黒船来航などによって具体的な外圧への危機意識が高まり、やがて幕藩体制の解体を企図する運動へと発展していきました。

 そんな激動の時代にあって、幕府においても乱世を切り抜ける優秀な人材が次々に歴史の表舞台に躍り出ることになります。そのうちの一人が老中首座「阿部正弘(あべ まさひろ)」ではないでしょうか。地方領主からの抜擢人事で幕政に参画した正弘は、若年ながら大胆な改革と近代化政策を推し進め、日本を新たな時代へと導く原動力の一角を担いました。

 今回はそんな阿部正弘の生涯について見てみることにしましょう!

出生~寺社奉行時代

 阿部正弘は文政2年(1819)10月16日、備後国福山藩第5代藩主・阿部正精(まさきよ)の五男として江戸・西の丸屋敷で誕生しました。母は正精の側室・高野氏で、正一・剛蔵・四郎五郎などの別称が伝わっています。

 文政9年(1826)に父・正精が死去、兄の阿部正寧(まさやす)が家督を継いだため正弘は本郷(現在の東京都文京区)の中屋敷へと移転します。しかし病弱だった正寧は天保7年(1836)に、27歳で隠居して家督を正弘に譲りました。

 福山藩10万石を継いだ正弘は翌天保8年(1837)、生涯でただ一度のお国入りを果たします。従五位下・伊勢守に任じられた正弘は同年9月1日に奏者番の役を拝命しました。

 「奏者番」とは、幕府や藩において城中における武家の礼式を管掌する役職です。具体的な職務内容としては、大名や旗本が将軍に謁見する際、または在国の各地大名が献上品を江戸城に送った際、その内容や人物を確認して将軍に報告を行うことなどでした。あるいは将軍から家臣に何かしらの下賜があった場合、その仲立ちをするのも奏者番の務めでした。

 また、転封や大名家の訃報に関わる上使、将軍家や御三家の法要への代参、将軍御前で元服式を執り行う場合の教導係など、典礼に関する幅広い職務がありました。

 幕府内で正確な定員数は定められていませんでしたが、おおむね20~30名の奏者番がいたとされ、譜代大名の就任が通例となりました。多くの場合はこの奏者番が初任の役となるため、その後の昇進の糸口となるものと位置付けられていました。

 奏者番は将軍と旗本・大名の仲立ちとなるため様々な人脈に精通し、大目付や目付に匹敵する重要な役職でした。

 また、万治元年(1658)以降は奏者番のうち4名が寺社奉行を兼任するならいであり、奏者番から寺社奉行に任命されることはいわゆる出世コースに乗ったことを意味していたといえるでしょう。

 正弘もこの通例に漏れず、天保11年(1840)5月19日に「寺社奉行見習」に、同年11月には「寺社奉行」に任命され、頭角を現していきます。正弘がその存在感を高めたのは、翌天保12年(1841)に露見した「中山法華経寺事件」における裁定でのことです。

 これは下総の中山法華経寺で、2名の僧侶が長年にわたって大奥の奥女中を含む多数の婦女と不適切な関係を結び、さらには物品を取って奢侈にふけるなどの乱行が幕府の知るところとなったものです。

 老中・水野忠邦の調査によって日啓・日尚という僧が捕縛され、それぞれ島流しと晒などの処罰が下されました。僧らの乱行は過去30年ばかりにわたって続いていたことで、第11代将軍・徳川家斉の側室も関係していたという、幕府にとっても不名誉な事実が明るみになりました。

 正弘はこの事件によって、さかのぼって家斉ひいては徳川将軍家の瑕疵となることを避けるため、僧らの処罰を中心として大奥には忖度を加えました。これら一連の処置を通じて第12代将軍・家慶から目をかけられるようになったといわれています。

老中就任~黒船来航

 天保14年(1843)閏9月11日、わずか25歳で正弘は老中に抜擢されます。同年12月に従四位下に叙せられ、翌弘化元年(1844)には侍従に任命されました。

 弘化2年(1845)9月には天保の改革の際に不正があったことを理由に、老中首座・水野忠邦を罷免へと追いやり、代わって自身が老中首座の地位に就きました。

 正弘の政策の骨子は、外圧に対する国防能力向上と開国を視野に入れた人材登用に集約されるといっても過言ではありません。また、これまでは老中という限られたメンバーで政権運営を行っていたものを、諸大名から広く意見を取り入れようとする方針へと転換。幕臣のみならず民間からも積極的に人材を求め、有名なジョン万次郎や江川英龍らはこの時期に登用されました。

 弘化3年(1846)、アメリカ東インド艦隊の司令官・ジェームズ・ビドルが浦賀(現在の神奈川県)に来航して日本との通商を求めるという出来事がありましたが、正弘は鎖国体制を理由としてこれを拒否。しかし嘉永6年(1853)にはマシュー・ペリーが米大統領(第13代大統領ミラード・フィルモア)の親書を携えて同じく浦賀に来航。さらに同年7月には、長崎にエフィーミー・プチャーチン率いるロシア艦隊が来航し通商を求めるなど、対外政策が喫緊の課題として持ち上がりました。

 正弘はこれらに対応すべく、海防参与に水戸藩主の徳川斉昭を任命。また、外様の大藩主連で中心的な役割を担っていた島津斉彬に接近し、のちにはその養女・篤姫を第13代将軍・徳川家定の正室に迎えるよう働きかけました。

ペリー再来航~最期

 しかし対外政策には決定的な対応策を見いだせないまま。嘉永7年(1854)1月16日にペリーが予告通り再来航すると、同年3月3日に日米和親条約を締結。ここにおよそ200年にもわたる鎖国体制を終焉させるに至りました。

 このような動きは国内攘夷派の猛反発を招き、内政面では意思統一ができませんでした。安政2年(1855)には徳川斉昭からの圧力によって、開国派の老中だった松平乗全・松平忠優を罷免。同じく開国派であった井伊直弼らが反発し、正弘は堀田正睦に老中首座を譲り攘夷派と開国派の融和を企図しました。

 その間にも正弘は国防強化政策を推進し、積極登用した人材を活用して講武所・海軍伝習所・洋学所などを開設。来るべき近代化に向けての人材育成にも注力しました。

 ちなみに各種武術の教授を中心に行った講武所はのちの陸軍、海軍伝習所は海軍、洋学所は東京大学と、それぞれの前身となった組織と位置付けられています。

 正弘は西洋砲術という近代戦闘の技術に着目し、さらには鎖国体制下で禁止されていた大船建造への規制を緩和させるなど、先を見据えた明快な国防方針をもっていたことがうかがえます。

 無二の人材としてさらなる役割を期待された正弘でしたが、安政4年(1857)6月17日に老中在任のまま江戸において急逝。満37歳という若さでした。はじめ江戸・浅草の西福寺に葬られましたが、のちに谷中墓地へと改葬されました。

おわりに

 困難きわまりない舵取りが必要だった幕末という時代にあって、正弘が果たした主導的役割は改めて評価されてよいといえるでしょう。

 国防強化は攻撃的な意思によるものではなく、海外勢力との対等以上の交渉を行うために必要不可欠な抑止力として捉えていたことがうかがえます。

 身分を問わない優秀な人材確保についても柔軟であり、現代的な視点からみても正弘の政策は理にかなった開明的なものだったといえるのではないでしょうか。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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