「藤田東湖」教育者にして、徳川斉昭の懐刀。尊王攘夷を公式のスローガンにした男!

コロコロさん
 2021/04/27

藤田東湖
藤田東湖

尊王攘夷という言葉は、幕末の日本を大いに揺るがしました。その言葉を公式に用い、志士たちに強い影響を与えた人物がいます。 水戸藩の藤田東湖(ふじた とうこ)です。

東湖は水戸学を修める家に生まれ、教育者である父・幽谷から薫陶を受けて育ちます。 家督相続後は、主君である水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の下で藩政改革を実行。側用人として大いに力を振るいました。 八年に及ぶ蟄居生活では、次々と著作を発表して世間に自らの気骨を示します。

東湖は何を学び、何のために戦ったのでしょうか。 藤田東湖の生涯を見ていきましょう。

英才教育を受けて育つ

水戸学の大家・藤田東湖の次男として誕生

文化3(1806)年、藤田東湖は藤田幽谷(ゆうこく)の次男として、水戸城下の藤田家屋敷で生まれました。

母は丹氏の娘・梅子です。名を彪(たけき)、通称を虎之介と名乗りました。東湖は号にあたります。彼の生家が東に千波湖を望むことにちなんでいると伝わります。

先祖は平安時代の公卿・小野篁(おの の たかむら)だと伝わりますが、これは確かな話ではないようです。実際は常陸国那珂郡の百姓がルーツのようです。曽祖父・与左衛門が水戸城下に移り住み、奉公先の商家から暖簾分けを許されたことが藤田家の始まりでした。

やがて祖父である与右衛門が「藤田屋」という古着屋を営みます。その次男が父・幽谷です。

幽谷は庶民の出身ながら高名な儒学者となります。水戸藩の藩士となった幽谷は、徳川光圀が起こした水戸学を発展させていきます。 後期水戸学の中心人物として、幽谷は水戸学藤田派を形成するに至りました。

東湖の長兄・熊太郎は夭折しています。そのため、早い時期から東湖は嫡男として教育されました。 八歳ごろには父から『正気歌(せいきのうた)』を与えられています。

これは南宋の宰相・文天祥(ぶんてんしょう、1236 - 1282)の著作によるものです。文天祥は南宋がモンゴル帝国に滅ぼされた後、皇帝クビライから出仕を求められますが、これを断り、やがて処刑された人物です。

同作には忠義を貫く心が詠われていました。東湖はのちに『文天祥正気の歌に和す』を著したほどに影響を受けています。ここから得られた考えは、のちの人格形成に大きな影響を与えたようです。

江戸での剣術修行と攘夷

文政2(1819)年、東湖は父の江戸出府に随行します。

東湖は体格にも優れていたと伝わります。 身長は六尺(180センチ)に近く、肉付きも良い体をしていました。当時としては大男と呼ばれるほどの偉容さです。 恵まれた身体を持っていたことから、学問だけでなく剣術にも精を出すことになります。

江戸では神道無念流の岡田十松の道場・撃剣館に入門。剣術修行にも励んでいます。同門には江川太郎左衛門や斎藤弥九郎がいました。東湖は二人とも親交を持っています。

江川太郎左衛門は後に伊豆国韮山の代官となります。日本随一の開明家として知られ、西洋砲術の導入や品川台場築造で活躍しています。

斎藤弥九郎は江戸三大道場の一つ「練兵館」を創設したことでも知られる剣術家です。剣術だけでなく兵学にも通じた人物として知られています。二人は終生の友として、東湖と誼を通じました。

ほどなくして、東湖は時代の荒波と向き合うこととなります。当時の日本近海には、外国船が頻繁に出没するようになっていました。

文政7(1824)年、水戸藩領である大津にイギリスの捕鯨船が来航。船員が上陸するという事件(大津浜事件)が起きます。

ここで幽谷は東湖に船員たちを皆殺しにするよう命じました。 東湖は現場に駆けつけますが、捕鯨船はすでに出航したために果たさずに終わります。

東湖はこの時初めて死を覚悟したと述べています。幽谷の教育は、それほど峻烈なものだったようです。

水戸藩の重鎮となる

家督相続と学者たちのまとめ役

文政10(1827)年、幽谷の没後、東湖は家督を相続。進物番の役職を得て200石の禄を得ます。さらに東湖は水戸藩の修史局・彰考館の編集や総裁代役を歴任することとなります。

彰考館は『大日本史』の編纂事業を担当する部署でした。 『大日本史』は神武天皇から後小松天皇に南北朝合一までを紀伝体でまとめた書物です。徳川光圀から始まる一大事業としても知られています。いわば彰考館は水戸学の総本山とも言える場所でした。

東湖はこの時、調整者としての役割を果たしています。 長年、彰考館では藤田派と立原派が対立を深めていました。ここで東湖は立原派との和解を実現させます。

彰考館には農政家の小宮山楓軒や、暦学の大場一真斎など、あらゆる分野の碩学がいました。 こうして東湖は学者たちの取りまとめ役となり、同時に水戸学の大成者として、確固たる地位を築きます。

藩主斉昭と尊王攘夷

文政12(1829)年、東湖のその後を大きく変える出会いがありました。

藩内において水戸藩主の継嗣問題が勃発。第十一代将軍家斉の子・徳川斉彊を擁する附家老一派と、先代藩主の実弟・斉昭を支持する学者や下級藩士らが対立を起こします。ここで東湖は斉昭派に所属し、家督相続に尽力。武田耕雲斎ら四十人とともに江戸に上って陳情に及んでいます。

ほどなくして、先代の遺言状が発見されました。そこに後継者を斉昭に指名する旨が書かれていたため、斉昭の家督相続が決定します。以来、東湖は斉昭の腹心として活動することになりました。

同年に斉昭が藩主に就任すると郡奉行を拝命。翌天保元(1830)年には江戸通事御用役、御用調役と出世の階段を上ります。斉昭からの信任は勿論ですが、東湖の能力の高さと藩内からの支持がそれほど高かったことをうかがわせます。

天保11(1840)年、東湖は側用人を拝命し、藩政改革にあたっていきます。

天保12(1841)年には、藩校・弘道館が完成。設立に尽力した東湖は、建学の精神を『弘道館記』の碑に漢文で残しています。

この中には「尊王攘夷」という言葉が用いられています。これはかつて古代中国の春秋時代において用いられた言葉であり、 国家の根拠を示す尊王思想と、外敵を打ち払う攘夷思想が一つになったものです。

「尊王攘夷」は幕末の志士たちの根源的思想となりました。そして明治へと時代を動かす力を生んでいきます。

失脚と復帰

座敷牢での蟄居

順風満帆かに見えた東湖の人生ですが、突如として転換点を迎えます。

弘化元(1844)年、斉昭は幕府から隠居謹慎処分を受けました。 水戸の藩政改革が行き過ぎだという理由です。

斉昭は藩内の仏教弾圧に取り組んでいました。没収した釣鐘や仏像は大砲の材料とされ、大規模な鉄砲訓練を行うに至っています。 これには幕府も看過できなくなり、ついに斉昭の藩主交代を命令しました。

藩政改革を主導した東湖にも、失脚の上で蟄居処分が下ります。 東湖江戸の水戸藩邸上屋敷に幽閉されました。同年中には、禄も召し上げられています。

弘化2(1845)年、水戸藩邸下屋敷に移されました。 屋敷内にある六坪ほどの一室を与えられ、そこを二つに区切って使っています。荷物を置くと、横になるのにも難渋するほどの狭さです。

理念を記した著書

東湖はこの幽閉期間中に『講道館記述義』、『回天詩史』、『常陸帯』、『文天祥正気の歌に和す』などの著作を執筆。東湖の理念や思想は、幕末の志士たちに強い影響を与えていきました。

弘化4(1847)年、東湖は水戸の蟄居屋敷に移されます。処分が解かれたのは、嘉永5(1852)年のことでした。八年もの間、東湖は座敷牢での生活を強いられたことになります。酷暑の中でも入浴できず、虱(シラミ)に苦しめられたといいます。

この時期の日本には、国家という意識が根付いていませんでした。しかし東湖は『文天祥正気の歌に和す』の中で日本全体を「神州」と表現しています。東湖は同作の中で、斉昭の濡れ衣を晴らし、国家の基礎を護りたい旨を述べています。

側用人復帰と安政江戸地震

嘉永6(1853)年、浦賀にペリー率いる黒船艦隊が来航。斉昭は海防参与に任じられて幕政に関わる立場となります。

斉昭は東湖を必要とし、江戸に召し出しました。ここで東湖は海岸防御御用掛の役職に就任。再び斉昭を支えていくこととなります。

安政元(1854)年には側用人に復職。藩政においても影響力を持つ立場に返り咲きました。 東湖は諸藩の要人とも面会を重ねています。その中には薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)や福井藩士の橋本左内がいました。

しかし東湖に思いがけない災難が待っていました。安政2(1855)年、江戸で安政江戸地震が発生します。

このとき東湖は家老・岡部兵部宅へ訪問し、一度藩邸内の自宅に戻っていました。その時地震に遭ったようです。

東湖は一旦は自宅からの脱出に成功しますが、東湖の母・梅子が火鉢の火を心配して屋敷の中に戻ってしまったため、すぐに母の後を追いかけます。

頭上から梁が落ちてきますが、東湖は母を庇って肩で受け止めます。ほどなく家老の岡部らが救出に現れ、梅子を脱出させることに成功しました。

しかし東湖は、母の無事に安堵したのか事切れます。そのまま下敷きとなり、亡くなりました。享年五十。

神号は藤田東湖命。墓所は水戸の常盤共有墓地にあります。江戸で友となった斎藤弥九郎が東湖の遺骸を長持に納めて水戸へ運んだと伝わります。


【主な参考文献】

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 ...


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