「武田耕雲斎」水戸天狗党のドン。尊王攘夷の旗の下、同志を率いて敦賀まで進軍!

幕末の水戸藩は、内紛によって多数の犠牲者を出しました。
内紛を長期間抑えるべく尽力し、同志の暴走を止めるために奔走した一人の男がいます。
藩の執政も務めた、武田耕雲斎(たけだ こううんさい)です。


耕雲斎は同志と藩を守るため、周旋活動に奔走。しかしついに、天狗党の首長に担ぎ上げられてしまいます。彼は何を目指し、何と戦って生きたのでしょうか。武田耕雲斎の生涯を見ていきましょう。


斉昭の懐刀として藩政に力を振るう

武田信玄の末裔を称す

享和3(1803)年、武田耕雲斎は水戸藩士・跡部正続の子として生を受けました。名は正生、通称は彦九郎と名乗ります。耕雲斎は号であり、他に如雲とも号しました。


やがて耕雲斎は、跡部宗家の跡部正房(家禄は三百石)の養嗣子となります。
文化14(1817)年には家督を相続し、武田姓に改めました。


跡部氏は甲斐源氏の流れを汲む一族です。家祖は甲斐武田氏とは別流の小笠原氏とされています。一族は室町時代に甲斐国の守護代となり、戦国時代には武田家臣となりました。


跡部家は甲斐武田氏とは姻戚関係にありました。その繋がりから、耕雲斎は武田信玄の末裔と称して武田姓を称したようです。


改姓の理由は、耕雲斎が跡部姓を嫌ったことにありました。先祖の跡部勝資は『甲陽軍鑑』の中で「奸臣」とされています。


勝資は武田家没落の原因を作ったといわれています。長篠の戦いでは主戦論を主張し、上杉景勝から賄賂を受け取ったとされています。


先祖のイメージは、自らの政治上の立ち位置に影響します。耕雲斎はそういった周囲の先入観を排除するため、改姓を選んだようです。


参政に任じられる

文政12(1829)年、水戸藩において跡目争いが生じます。


先代藩主の実弟・徳川斉昭の一派(改革派)と、将軍家斉の子・徳川斉彊(なりかつ)を推す一派(門閥派)が対立を深めていました。


耕雲斎は、藤田東湖らと共に徳川斉昭の藩主擁立に尽力。東湖らとともに江戸に上って幕府に陳情を行っています。程なく先代の遺言書が見つかり、藩主は斉昭に決しました。


このときから、耕雲斎は斉昭の腹心の一人に加わります。藤田東湖や戸田忠太夫と並び「水戸の三田」と称せられました。


天保11(1840)年、耕雲斎はこれまでの功績によって水戸藩の参政を拝命します。参政は藩の執政(家老職)の次に位置する役職でした。耕雲斎は藩政改革派の重鎮として、斉昭から期待をかけられていたことがうかがえます。


天保12(1841)年、水戸藩の藩校・弘道館が完成。耕雲斎も設立に携わりました。この「弘道館記」には「尊王攘夷」の言葉が使用されています。すでにこのときには、斉昭や東湖と並び耕雲斎も時代を主導する立場として認識されていたようです。


しかし弘化元(1844)年、斉昭は幕府から隠居謹慎を命じられました。
斉昭の領内における問題行動が原因とされています。


これより前、斉昭は領内において仏教弾圧を行い、釣鐘や仏像を没収していました。それを大砲などに変えて、大規模な鉄砲訓練を行っています。これが幕府の逆鱗に触れ、政界からの追放となった形です。


しかし耕雲斎は納得していませんでした。それどころか、斉昭の処罰に強く反対を述べます。
そのため連座して謹慎処分が下されることとなりました。


嘉永2(1849)年には、斉昭が謹慎を説かれて藩政に復帰。このとき耕雲斎も再び藩政に関わるようになりました。


藩内外の周旋に奔走する

斉昭の死と藩政の混乱

やがて耕雲斎や水戸藩に歴史的な転機が訪れます。

嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリーの黒船艦隊が来航。斉昭は幕府海防参与に任じられ、強硬に攘夷を主張し始めます。


幕府が開国に傾く一方、全国的では尊王攘夷運動の機運が高まりを見せていきました。
安政3(1856)年、耕雲斎は家老職である執政を拝命。藩政を担当しつつも、斉昭の尊王攘夷運動を支えていきます。


しかし耕雲斎は過激な尊王攘夷派ではありませんでした。むしろ行き過ぎた攘夷論とは距離を取っています。


当時の水戸藩は尊王攘夷運動の急先鋒という位置にありました。朝廷からは戊午の密勅を下賜され、斉昭の七男・慶喜は将軍継嗣の候補者となっていました。


しかし万延元(1860)年、斉昭が病によって世を去りました。水戸藩は強力な指導者を失い、内部対立を深めていきます。


藩内では天狗党(尊王攘夷派)と諸生党(門閥派)が政争を繰り広げます。さらに天狗党の内部でも激派と鎮派に分かれ、激派は出身地別に分裂するなど混迷を深めていました。


耕雲斎は天狗党に所属しながらも、各派閥の調整に乗り出します。しかし混乱は収まらず、藩内の争いは激化していきました。それどころか、耕雲斎は後ろ盾を失ったことで藩政から遠ざけられていくようになります。


執政(家老)の立場から尊攘派の暴走を止める

文久2(1862)年、耕雲斎は水戸藩の執政に復帰を果たします。


この頃には全国的に尊王攘夷運動が活発となっていました。長州藩などは幕府に攘夷実行を強く要求し、将軍家茂が上洛する事態となります。


水戸藩の藩校弘道館は藩内外の尊王攘夷派の拠点として結集の場になりつつありました。


耕雲斎は天狗党にいながら、同志たちの暴走を止めようとする意図もありました。当然、そこには仲間を守るという決意があったと思われます。


同年、将軍後見職となった徳川慶喜も上洛。一橋家には兵力が足りないため、水戸藩に協力が求められます。


文久3(1863)年、水戸藩主・徳川慶篤(慶喜の兄)は耕雲斎や藤田小四郎らを引き連れて上京を果たしました。


耕雲斎と小四郎らは、京で長州藩の桂小五郎らと交流を結びます。このとき、小四郎は長州藩と組んでの挙兵計画を構想していました。

暴発を警戒した耕雲斎は小四郎を慰留します。水戸藩の尊王攘夷は幕府寄りでしたが、長州藩の思想は討幕にありました。水戸藩や天狗党が危機に陥ることを喝破して警戒していたようです。


しかし小四郎は聞き入れず、各地で金策や遊説を行い、渋沢栄一とも繋がりを持っています。
耕雲斎は藩内の尊王攘夷派が暴走することを恐れます。そのため外部と政治的な繋がりを持つようになります。


文久4(1864)年、耕雲斎は200名以上の水戸藩士を上京させ、慶喜の配下に組み入れました。
これは慶喜が水戸藩との協力行動を取るべく耕雲斎に依頼したものです。


しかし耕雲斎にとっても藩内の尊王攘夷派のガス抜きという意味を持っていました。
当時の慶喜は、朝廷と幕府に発言力を有しています。そこと水戸藩が繋がりを強化することで、尊王攘夷派の暴走に歯止めをかける意図があったと考えられます。


天狗党を率いて西上する


天狗党の領袖となってしまう

元治元(1864)年、藤田小四郎(藤田東湖の四男)が筑波山において水戸天狗党と共に兵を挙げました。
当初62人だった人数は、数日後には150人に到達。最盛期には1400人を超える集団へと膨れ上がりました。


小四郎らの行動は、水戸藩の藩論に逆らうものです。
執政である耕雲斎は、表立って小四郎たちを責めることはしていません。むしろ小四郎たちの圧力を背景に、幕府政治への介入を画策します。


さらには慶喜や在京の藩士とも連絡を取り、朝廷への周旋を依頼していました。
ここで耕雲斎は天狗党の暴発も討伐も避ける道を模索していたようです。


同時に耕雲斎は小四郎に面会。説得に当たりますが、逆に小四郎は耕雲斎を天狗党の首領になるように懇願しました。
当然、耕雲斎は拒絶し続けます。しかし小四郎の熱意に負け、結局は首領となってしまいました。
耕雲斎はこのとき、死を覚悟したと言います。


耕雲斎は天狗党を率いて出陣。水戸から京を目指して西上を開始することになりました。
尊王攘夷を朝廷に訴え、慶喜を新たな水戸藩主とすることを目的としていました。


このとき、天狗党は略奪や放火によって民衆の恨みを買っている状態です。耕雲斎らは軍律を定めて、好意的な場所への略奪行為は禁止しています。


厳しすぎる処罰

天狗党は中山道を行軍し、四十日かけて越前国敦賀の新保に入ります。
ほどなくして、天狗党は加賀藩など幕府軍の討伐を受けて降伏。しかし耕雲斎たちには、満足な取り調べもありませんでした。

耕雲斎と小四郎らは町外れの来迎寺境内に引き立てられます。ここには刑場が設けられていました。
ここで耕雲斎は斬首されました。享年六十三。墓所は水戸の妙雲寺にあります。


辞世は「咲く梅の 花ははかなく 散るとても 香りは君が 袖にうつらん」と伝わります。


その後

捕縛された天狗党の828名のうち、352名が処刑されました。
耕雲斎たちの首は、塩漬けにされて水戸に送られたといいます。その後三日間、水戸城下を見せしめのために引き回されたと伝わります。更に那珂湊において晒され、野捨とされました。


天狗党の敗北後、佐幕派の諸生党は天狗党員の家族らを次々と捕縛。耕雲斎の妻妾や子孫の多くも水戸で斬首されました。


明治24(1891)年、耕雲斎の功績が讃えられ、正四位が追贈されました。松原神社の祭神として祀られ、靖国神社にも合祀されています。



【主な参考文献】
  • 福井県総務部県史編纂課 『福井県史』通史編4 近世二 福井県 1996年
  • 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』 新人物往来社 1986年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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