「大橋訥庵」坂下門外の変の首謀者! 朱子学者にして思誠塾の塾頭
- 2021/07/19
江戸時代を通して、武士を中心に学ばれたのが朱子学です。
幕末になると、朱子学者の立場から公然と幕府を批判する人間も現れます。それが大橋訥庵(おおはし とつあん)でした。
訥庵は兵学者の子として生まれ、長じて宇都宮藩主の侍講を務めるほどの朱子学者となります。
幕府が開国政策に踏み切るとこれを糾弾。一千人以上の門弟を抱えるほどの勢力を築き上げます。
やがて訥庵は討幕計画を立案し、挙兵と老中暗殺のために準備を進めていきます。
訥庵は何を目指し、どのような方法で幕末を生きたのでしょうか。
大橋訥庵の生涯を見ていきましょう。
朱子学者として名を成す
兵学者の子として生まれる
文化13(1816)年、大橋訥庵は長沼流兵学者・清水赤城の四男として生を受けました。母は常子(越後高田藩医・安平玄孝の娘)です。諱は正順、通称は順蔵、字を周道、号が訥庵と名乗りました。
当初は母方の親族で信濃飯山藩士・酒井力蔵の養子として入ります。しかしのちに離縁しています。
天保6(1835)年、儒学(朱子学)者・佐藤一斎に師事。訥庵は朱子学との出会いによって頭角を表します。一斎の弟子には、佐久間象山や横井小楠も名前を連ねていました。
ここで培った見識が訥庵のその後の人生を決定づけたようです。
宇都宮藩主の侍講となる
天保12(1841)年、日本橋の豪商・佐野屋の主人である大橋淡雅の娘・巻子を妻に迎えました。
淡雅は書の鑑定家としても知られ、文人との交流が盛んな人物です。娘の巻子も歌人としても知られていました。
訥庵は大橋家に婿養子という形で入ったようです。この時から訥庵は大橋姓を名乗っています。
同年、訥庵は日本橋において自らの塾・思誠塾を設立。ここで儒学を教授していきます。
訥庵の指導は評判が良く、全国から多くの門弟が集まるようになりました。その数は一千数百人を数えたと言われています。
訥庵の評判は、大名にも聞こえたようです。
嘉永3(1850)年には、宇都宮藩主・戸田忠温(ただはる)の侍講に抜擢。藩主に月一度の儒学の講義を行うに至りました。
尊王攘夷派の急先鋒となる
尊王攘夷派の有識者として活動する
嘉永6(1853)年、浦賀にペリー率いる黒船艦隊が来航します。
訥庵は朱子学者の立場から開国論を激しく糾弾。尊王攘夷論を先鋭化させていきます。
幕府に対しては、夷狄(いてき。外国人のこと。)を打ち払うことを強硬に主張するなど、全国的に注目を浴びるようになっていきました。
このとき、攘夷論を提唱していたのが水戸徳川家の徳川斉昭です。
斉昭は幕府の海防参与となり、開国政策の幕閣と対立。攘夷派の急先鋒として期待されていました。
同年、訥庵は斉昭に「隣疝臆議」を提出。攘夷の実行を迫っています。
訥庵は相手が幕府の要人でも、臆せずに持論を展開する人物となっていました。
安政2(1855)年に安政江戸地震が勃発。マグニチュード7級の大地震が江戸を襲いました。
訥庵や巻子は無事でしたが、思誠塾は倒壊してしまいます。
そのため翌安政3(1856)年、思誠塾を向島の小梅村に移転することとなりました。
朱子学者として開国を批判する
訥庵はめげずに政治的運動に邁進していきます。
安政4(1857)年には『闢邪小言』を発表。訥庵は朱子学者の観点から西洋文明を厳しく批判しています。
しかし既に幕府は開国政策に踏み切っていました。
安政5(1858)年には、幕府は勅許なしで日米修好通商条約に調印。批判した斉昭ら一橋派は、幕府大老・井伊直弼によって隠居に追い込まれます。
井伊は安政の大獄によって、一橋派や尊王攘夷派と次々と弾圧。朝廷や幕府、諸藩の要人を次々と捕縛あるいは、処刑していきました。
大獄では、高名な儒学者・頼三樹三郎も処刑されています。遺体は埋葬も許されず、打ち捨てられるという凄惨な処置でした。
訥庵はこれを見かねて、門弟と共に小塚原刑場に向かいます。そこで頼三樹三郎の遺体を棺に納め、埋葬を行ないました。
公武合体政策を批判する
討幕計画を練り始める
安政7(1860)年、大老・井伊直弼は桜田門外において水戸浪士に暗殺されました。これにより、幕府の権威は大きく失墜します。
これにより、幕府政治を主導することになったのが老中・安藤信正です。
安藤は公武合体政策を推進していくことを決めます。
公武合体は、朝廷と幕府の結びつきを強めて幕藩体制の強化を図ることを目的としていました。
安藤は和宮(孝明天皇の妹)を第十四代将軍・徳川家茂の正室に迎える降嫁策を進めます。
しかしこの政策は、全国の尊王攘夷派の怒りを買うこととなりました。
訥庵もこの婚姻政策に猛烈に反発。討幕の計画を練り始めるようになっていきました。
文久元(1861)年、訥庵は『政権快復秘策』を作成します。
これは公武合体に否定的な見方をした上で、朝廷に攘夷の勅命を上奏するものでした。
門弟の椋木八太郎は「秘策」を持って上奏のために京に上ります。
老中への諫言を捏造する
訥庵は水戸藩の尊王攘夷派とも連絡を取っていました。
水戸藩に外国人襲撃を決行させ、幕府の公武合体政策を頓挫に追い込む意図がありました。
しかし水戸藩の尊王攘夷派からは、意外な答えが返ってきます。
老中の安藤信正を暗殺したいという旨の返答でした。
訥庵はこれに乗り気ではありませんでした。朝廷からの「秘策」の回答を得てから判断するつもりでした。
しかし「秘策」は朝廷に採用されることはなく、10月には和宮降嫁の勅許が下ります。
訥庵はこれでも諦めず、次の行動に打って出ます。
同年の11月に、堀利煕(元外国奉行)が自害を遂げるという事件がありました。
訥庵は堀の自害を利用して、政治利用することを思い付きます。
本来は存在しない、堀から安藤信正への諫言の書状を捏造。これを尊王攘夷派の間に回していきました。
結果、堀は安藤へ抗議の自刃をしたという世論を醸成。安藤への悪評をより一層強まることに成功しました。
坂下門外の変の計画者となる
輪王寺宮と徳川慶喜の擁立計画
訥庵は、攘夷のための兵を挙げる計画を立案します。
計画においては、公現法親王(後の輪王寺宮。孝明天皇の義弟)を擁立するつもりでいました。
公現法親王を訥庵たちが擁立することで、攘夷の大義名分と尊王攘夷派の支持を得る目算もあったようです。
しかし連絡を取っていた水戸藩の尊王攘夷派(天狗党)は、挙兵計画に難色を示します。
水戸藩側は老中安藤の暗殺を重ねて主張。十分な協力者を得ることができなくなり、訥庵の挙兵計画は白紙となりました。
仕方なく訥庵は、安藤暗殺の計画を練ることとなります。
しかし決行日は一度決まったものの延期されるなど、連携の拙さが見え隠れする形となっています。
菊池教中(訥庵の義弟)は訥庵と書状を通して連絡。老中暗殺後の生き残りは、会津藩邸に攘夷の直訴に及ぶなどの献策をしています。しかし訥庵は壮絶な覚悟でことに臨んでおり、これを拒否します。
暗殺の成否に関わらず、全員が襲撃後に自害する覚悟が必要だと書状で述べています。
12月26日には、訥庵は宇都宮藩の尊王攘夷派とも会合を持っています。
ここで安藤暗殺計画の決行が、年明けに再延期が確認されます。
同時に暗殺後には朝廷に使者を派遣し、攘夷の勅命を出してもらうように要請することも話し合われました。
訥庵が念願とする挙兵計画も話し合われています。
そこでは一橋家の徳川慶喜(斉昭の七男)を擁して、輪王寺のある日光山で挙兵するというものでした。
慶喜は斉昭の遺児であり、尊王攘夷派からも支持を受けています。
さらには日光は徳川家にとって家康以来の聖地でした。
訥庵は挙兵において尊王攘夷派、佐幕派の両方から協力者を糾合する意図があったようです。
坂下門外の変と捕縛
年が明けて文久2(1862)年1月8日、訥庵は慶喜を擁立するべく、事前に上書を提出するつもりでいました。そこで一橋家の近習・山本繁太郎に取次を依頼します。
しかしここで山本は慶喜が巻き込まれることを恐れ、幕府に密告。訥庵の挙兵計画は幕府に知られてしまいました。
12日、訥庵は南町奉行に捕縛。翌13日には思誠塾が幕府によって家宅捜索を受けています。
しかし訥庵の捕縛で事件は終わりませんでした。
1月15日、安藤信正の登城する日が訪れます。この日は本来、訥庵たちが襲撃の決行日と予定してました。
訥庵と協力するはずだった6名の志士たちは、坂下門外に集結。登城途中の安藤の行列に斬り込みます。
安藤は手傷は負ったものの命は取り留めました。しかし襲撃者の6名はいずれもその場で斬殺されます。
世にいう坂下門外の変です。
宇都宮藩に身柄を引き取られる
変以降、訥庵の関係者たちは次々と捕縛されていきました。
収容された伝馬町牢屋敷の獄舎は、劣悪な環境です。同志たちは次々と獄死を遂げていきました。
本来ならば訥庵も獄死か、処刑されるのを待つはずでした。
しかし侍講を務めた宇都宮藩の家老・間瀬和三郎らが赦免に動いたことで事態は変わります。
訥庵は7月8日に出獄して宇都宮藩邸に身柄を預けられることとなりましたが、12日、突如として病に倒れ、世を去るのです。一説に毒を盛られて殺されたとも伝わります。享年四十七。墓所は谷中天王寺の大橋家墓地にあります。
訥庵の死後30年近く経った明治24(1891)年、その功績によって従四位を追贈されました。
【主な参考文献】
- 佐藤昌介「大橋訥庵」『国史大辞典』第2巻 吉川弘文館 1991年
- 宇都宮市史編纂委員会『宇都宮市史』近世通史編 宇都宮市 1982年
- 「大橋訥庵」『明治維新人名辞典』 吉川弘文館 1981年
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