「川路聖謨」 その人柄はロシアのプチャーチンも絶賛!大河『青天を衝け』にも登場した幕臣

幕末は黒船来航により幕を開けます。
このとき、幕府の全権代表としてロシアとの条約交渉に当たった人物がいます。
幕臣・川路聖謨(かわじ としあきら)です。

聖謨は下級役人の子として生まれながら、その聡明さは周囲の知るところとなります。
小普請組から始まり、勘定所の要職を担当。水野忠邦から天保の改革の一端を担うべく抜擢されていきます。
しかし後に聖謨は、水野の失脚とともに左遷。安政の大獄では一橋派に所属したため、井伊直弼から目をつけられました。

聖謨は何と戦い、何を目指して自らの道を歩んだのでしょうか。
川路聖謨の生涯を見ていきましょう。


貧しく厳しい少年時代

代官所の属吏の子として誕生

享和元(1801)年、川路聖謨は豊後国日田の代官所構内の小屋で、代官所属吏・内藤吉兵衛の子として生まれました。母は代官所手付・高橋誠種の娘です。幼名は弥吉と名乗りました。

生まれ育った家庭は、決して裕福ではありませんでした。むしろかなり貧窮しています。
その中でも両親は教育に力を入れ、聖謨と弟の井上清直は厳格に育てられたと伝わります。


さらに聖謨は、子供の頃に疱瘡を罹患。一命は取り留めましたが、身体には多くのあばたが残りました。後年、これらの苦労と両親の愛情を思い出して聖謨は弟・清直と涙したと伝わります。


江戸で御家人の子となる

文化元(1804)年、聖謨の一家は江戸に出ます。
文化5(1808)年には、父の吉兵衛が江戸に出て御家人株を取得。幕臣となって御徒士組に入ることとなりました。


当時の御家人の家格は、金銭で売買されることがあります。生活に困窮した御家人が、養子縁組の形で町人などに家格を売却していました。御徒は70俵5人扶持と微禄であったため、特に生活が困窮しやすい身分です。御徒の身分は、およそ500両(約5000万円)で売りに出されるのが相場でした。


聖謨の家庭が貧窮したのもここに原因がありそうです。この大金のために、吉兵衛たちは倹約していた可能性があります。


下級役人から天保の改革の遂行者へ

勘定所で出世街道を歩む

文化9(1812)年、聖謨は小普請組の川路光房の養子となります。翌文化10(1813)年には元服し、小普請組に入ることとなりました。


小普請組は、幕臣で無役の三千石以下の人間が所属する組です。
元来は営中の小普請に人足を出す義務を負っていました。しかしこの時代になると、義務は人足供出から金納に変わっていました。


つまり小普請組は、事実上の閑職に近い存在だったのです。


しかしここで聖謨の才覚が花開くこととなりました。
文化14(1817)年、勘定奉行所の下級職員の資格試験「筆算吟味」に合格します。


文政元(1818)年には、勘定奉行所支配勘定出役に採用。支配勘定を経て御勘定に昇進します。
御勘定は将軍家に御目見がかなう地位です。すなわち聖謨は、旗本に出世することが出来ました。


文政10(1827)年には、勘定組頭格に就任。勘定所の諸役人を統率する立場となりました。


天保の改革の一端を担う

聖謨はその有能さを買われ、政治と深い関わりを持っていきます。

天保6(1835)年には、寺社奉行吟味物調役として出石藩のお家騒動・仙石騒動を裁定。当事者の処罰は勿論、時の老中・松平康任や南町奉行や勘定奉行らが失脚することとなります。


この一件により、聖謨は勘定吟味役に昇進を果たしました。
勘定吟味役は、江戸幕府において全ての勘定所の監視を行う役職です。すなわち、財政の収支から天領の年貢徴収、貨幣改鋳など一切を監視します。すでに聖謨は、幕府の要人というべき地位に就いていました。


聖謨は次々と要職を歴任。佐渡奉行を経て小普請奉行、や普請奉行を務めています。
このときには聡明さを買われて、老中・水野忠邦の下で天保の改革に関わりました。


学識豊かな奈良奉行

西洋諸国への関心

聖謨は西欧諸国に関心を抱きます。
勘定吟味役の職務から、当時の幕臣としては珍しく、西洋事情やその先進的な技術にも通じていました。

やがて聖謨は、蘭学者らが集いである「尚歯会」に参加します。ここには高野長英や渡辺崋山、江川英龍などの著名な開明家たちが名を連ねていました。

向学心が高じた形ですが、当時は蘭学を学ぶことは制限されています。当然、幕府に睨まれる危険性も秘めていました。
そして天保10(1839)年、蛮社の獄が勃発。高野や渡辺らが幕府によって弾圧を受けます。

このとき、聖謨も危うく連座しかけたという説もあります。


神武天皇陵をを捜索する

天保14(1843)年、水野忠邦が失脚。老中を退きました。
当然、政治的に近い立場であった聖謨も影響を受けることとなります。

弘化3(1846)年、聖謨は奈良奉行に異動。これは実質的には左遷だったようです。
しかし聖謨は変わらず職務に励みます。

嘉永2(1849)年には、『神武御陵考』を著述。行方不明となっていた神武天皇陵の推定を行います。
ここでは慈明寺村の「神武田(じぶでん)」の小丘が神武天皇の真陵だと論じています。

この説は有力となり、孝明天皇が後にこれを確定させました。学識の深さは勿論、聖謨の奈良奉行としての問題意識が強かったことは確かなようです。


聖謨は奉行時代に、民政においても成果を挙げました。


多聞山城跡は当時、乱伐によりはげ山となっていました。そのため五十万本もの木を植樹。佐保川にも桜の木を植えており、現在でも「川路桜」として残っています。


奈良市の佐保川に残る川路桜
奈良市の佐保川に残る川路桜(出所:wikipedia

さらに領内の貧民の救済策を実施。博打の厳格に規制しています。領民は聖謨を「五泣百笑の奉行」と呼んで親しみました。これは悪徳な博徒や僧侶、役人、商人、裁判短期化で客が減少した公事宿が泣き、
百姓が笑うという意味です。


条約交渉と隠居

ロシアとの交渉で全権代表となる

聖謨は嘉永4(1851)年に大坂東町奉行を経験。翌嘉永5(1852)年には、勘定奉行(公事方)に就任しています。

勘定奉行は勘定所の長官職で三千石格です。聖謨のように最下級の役人からの出世は異例なことでした。優秀さは勿論ですが、当時の幕府の人事制度が柔軟であったことがわかります。


嘉永6(1853)年、浦賀にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に開国を求めてくる事態となりました。
聖謨は老中首座・阿部正弘により海岸防禦御用掛を拝命。ここで開国と通商を提唱します。


同年、さらに露使応接掛に就任。ロシアとの国境画定や条約交渉において全権代表として取り組むことになります。
聖謨はロシア使節・プチャーチンと会談。プチャーチンらは聖謨を「ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性をそなえた人物」と称賛しています。


ロシア側が肖像画を描こうとすると、聖謨は遠慮して「私のような醜男を一般的な日本人の顔だと思われては困る」と言って笑わせました。


安政元(1854)年には、下田で日露和親条約が調印。少しでも対応を誤れば、列強から軍事攻撃を受けかねない危機的状況下での聖謨の交渉でした。


安政の大獄で隠居する

安政5(1858)年、聖謨は堀田正睦に同行して上洛。朝廷から日米修好通商条約の勅許を得ようとしますが、実りませんでした。結局、条約は弟の井上清直らが勅許なしで調印。幕府は大きな批判を浴びることとなります。


同年、井伊直弼が大老に就任。井伊は将軍継嗣問題において、対立していた一橋派への政治的弾圧を開始します。
一橋派であった聖謨もこれに連座し、閑職である西の丸留守居役に左遷。翌安政6(1859)年には罷免され、隠居差控を命じれました。


安政の大獄のイメージイラスト

文久3(1863)年に勘定奉行格外国奉行に復帰。しかしこれは慶喜に関する御用聞きのような役職でした。聖謨は四ヶ月ほどで病気を理由に辞職しています。


自らに厳しい人生

聖謨の一日の過ごし方

引退後は中風による半身不随に悩まされました。
というのも、聖謨は自らに厳しすぎるほどの生活を課していたからです。


以下、聖謨の1日を紹介していきましょう。


午前2時に起床、そこから夜明けまで書き物や読書にいそしみます。
夜明け後に武術の訓練を実施。刀と槍の素振りをそれぞれ二千回ずつ行うという過酷なものでした。


次いで来客の話を聞いて後、10時に登城。勤務時間の17時まで城に詰めることになります。

帰宅後は別の来客と夕食をとって話を聞き、22時ごろには応対を終えていました。
そこからは夜中の12時まで書き物と読書を行い、そこから就寝することが日課です。


一日の睡眠時間は、わずか二時間しかありません。そのため、聖謨が身体を壊すことは必然でもありました。


江戸城総攻撃の日に自決する

慶応4(1868)年3月15日、聖謨は自宅において自害。割腹した上、ピストルで喉を撃つという壮絶な死に様でした。


享年六十八。戒名は誠格院殿嘉訓明弼大居士。墓所は大正寺にあります。


辞世は

「天津神に 背くもよかり 飢えにし人の 昔思へば」


と伝わります。

このピストル自殺は、日本において聖謨が初めてのこととされました。


自害した日は、新政府軍による江戸城総攻撃が行われる予定でした。聖謨は滅ぶ幕府に殉じたと言われています。
死後、旧幕臣ながら生前の功績が讃えられて、従四位が追贈されています。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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