「堀田正睦」蘭学に関心強く、”蘭癖(らんぺき)” と称された幕末の老中首座

幕末の動乱は黒船来航と同時に始まりました。
その時代にあって、開国路線を推し進め、日本を発展させようと尽力した人物がいます。時の老中首座・堀田正睦(ほった まさよし)です。

正睦は佐倉藩主として蘭学教育に力を入れ、次世代の育成に務めました。
老中となってからは開国通商を目指して奮闘。井伊直弼とも親交を結んで政治的立場を固めていきます。
しかし条約調印問題と将軍継嗣問題が起きると一変。正睦は危機的状況に追い込まれていきました。

正睦は何を目指し、何を戦って生きたのでしょうか。堀田正睦の生涯を見ていきましょう。


佐倉藩主として

佐倉藩主の次男として誕生

文化7(1810)年、正睦は佐倉藩第三代藩主・堀田正時の次男として江戸の藩邸で生を受けました。生母は側室・芳尾(源田氏)です。幼名は左源次、初名は正篤(まさひろ)と名乗りました。

出生の翌年、父・正時が世を去ります。藩主となったのは長兄の正愛(まさちか)でした。正睦はその養子となります。


※参考:堀田家の歴代佐倉藩主
  • 正亮(初代)
  • 正順(2代)
  • 正時(3代)
  • 正愛(4代)
  • 正睦(5代)
  • 正倫(6代)

幼少期の正睦は丈夫な身体を持ち順調に育っていきました。近習や仲間と外に出て自然の中で遊ぶなど、活発な少年だったようです。小鳥に餌をやることを好むなど、優しい心も育んでいます。渋谷の広尾にあった下屋敷において、母の芳尾や姉と共に安らかに過ごしたと伝わります。


藩主として権力を確立

文政5(1822)年、元来病弱であった正愛が肝臓を患います。文政7(1824)年には、生命の危機に瀕する事態となりました。

正愛には実子がいましたが、既に夭折しています。そのため、本来であれば養子の正睦がそのまま家督を相続する見込みとなっていました。


しかし藩政を取り仕切る金井右膳らは、別の人物の擁立を画策。正愛の後見であった若年寄・堀田正敦(近江堅田藩主)の子を次期藩主に考えていました。


これが藩内の中で議論を呼び、物頭の渡辺弥一兵衛らは正睦を支持。金井一党と対立を深めていくことに。さらにこの後、堀田正敦が養子を出すことを拒否。ここでようやく、正睦が家督相続の上藩主へ就任することが出来ました。


しかし最初から正睦に実権があったわけではありません。藩内では、依然として金井が専権を振るう状態でした。


正睦は自らの権力を確立すべく、支持派である渡辺弥一兵衛を側用人に任命。金井には時として掣肘を加えていきます。
金井は次第に権勢を喪失。天保4(1833)年の金井の死去により、正睦は完全に藩内を掌握することができました。


このときから正睦は藩政改革を断行。その中の目玉が蘭学の奨励でした。
正睦は佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂(順天堂大学の前身)を開かせ、藩をあげて開化政策に取り組んでいきます。


病院 兼 蘭医学塾である「佐倉順天堂」を開設した佐藤泰然。日本の蘭方医。
病院 兼 蘭医学塾である「佐倉順天堂」を開設した佐藤泰然。日本の蘭方医。

これらの政策から、正睦は蘭癖(らんぺき)と周囲から呼ばれるようになっていきました。


幕政に参加。老中として天保の改革へ

文政12(1829)年、正睦は奏者番を拝命。天保5(1834)年には寺社奉行となり、受領名を備中守と名乗っています。


天保8(1837)年5月には大坂城代となり、7月に江戸城西の丸老中を拝命。政治により深くこととなっていきました。


天保12(1841)年、大御所・徳川家斉が病没。これに伴い、政治は水野忠邦が実権を握るようになります。正睦は本丸老中を拝命。水野が行う天保の改革遂行に深く携わっていくことになりました。


水野忠邦の肖像(首都大学東京図書情報センター所蔵)
天保の改革を主導するも、わずか2年で失敗、免職となった水野忠邦。

しかし天保の改革は思わぬ形で2年ほどで頓挫します。苛烈すぎる取り締まりと、鳥居耀蔵の悪政が批判を受けたためでした。


正睦は改革に関わる立場でありながら、この改革を否定的に捉えていたようであり、天保14(1843)年にいち早く辞表を提出しました。その5日後には水野忠邦が老中を罷免され、失脚しています。


水野が失脚すれば、遂行者である正睦もただではすまなかったことでしょう。彼は迅速に政治的距離を取ることで、難を逃れたのです。


同年、正睦は溜間詰を拝命しました。溜間詰の大名は、将軍や幕閣の諮問役として政治に発言力を有することになっています。


本来であれば、正睦の堀田家は帝鑑間に詰めることになっています。しかし家柄以外でも、老中の前任者が溜間詰に任命されることもありました。正睦の場合がまさにこれに該当しています。


正睦の政治的観察眼がいかに優れていたかを物語る逸話です。


老中を辞任後、正睦は国許の佐倉藩に帰国。再び藩政改革に着手して功績を挙げています。
この時、正睦はすでに鎖国が時代遅れと認識。一刻も早い開国通商路線を掲げていました。
実際に藩医にオランダ医学を学ばせ、軍事には西洋の兵制を採用しています。


溜間で井伊直弼と出会う

弘化3(1847)年、溜間詰に新たな人間が加わります。
彦根藩主の世子であり、代理となった井伊直弼です。直弼はまだ藩主就任前であり、かつ新参者という位置付けでした。
当然、直弼は肩身が狭い思いをしています。
そこで正睦は直弼を庇い、これを助けていたと伝わります。


嘉永3(1850)年には、阿部正弘と直弼が浦賀周辺の警備を巡って対立。このときも正睦は間に入って二人を取り持ちます。正睦は後に大老となる井伊直弼と親友に近い関係を築いていました。


嘉永4(1851)年、正睦は手塚律蔵を佐倉藩に招聘。蘭書の翻訳に従事させています。
さらに正睦は手塚に英語の体系的な研究を行わせています。これは日本で初めての試みでした。


正睦はあくまで体系的な学問を目指していたようです。
手塚の門下からは西周や神田孝平、津田仙などの人材が輩出。明治の日本を担う人材が次々と育成されていきます。



老中首座として開国路線を主張


安政2(1855)年、安政江戸地震が勃発。正睦は藩邸上屋敷にいて負傷しています。
まもなく阿部正弘から老中首座を譲られました。さらに外国掛老中を兼任することとなります。


攘夷派の斉昭は、開国通商路線の正睦就任に反対します。しかし政治の実権はいまだに阿部が有していました。正睦は矢面に立たされる形で老中首座となったのです。


安政4(1857)年、阿部正弘が病没。正睦はようやく老中として実権を握ることになりました。


正睦は元来より開国通商路線を是とした考えを持っています。当然、政治においてその路線を打ち出していきました。


正睦はここで開国通商の路線を打ち出します。しかし溜間詰の諸侯の一部はこれに反発。正睦の開国方針に異論を唱えて紛糾します。
反発を受けて、井伊直弼が溜間詰の諸侯を押え込むことに成功。正睦を助けることに成功しています。


将軍継嗣問題で一橋派に所属する

安政5(1858)年、正睦は朝廷から日米修好通商条約の調印の勅許を得るために上洛しますが、攘夷派公卿が列参して抗議運動を展開。結果的に勅許を得ることができずに帰還を余儀なくされます。


しかし、ほどなくして下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震の両名により、勅許なしの状態で条約調印が行われました。これが徳川斉昭や尊王攘夷派から糾弾されることとなります。


ハリス条約調印のイラスト
日米修好通商条約の調印は、井上清直と岩瀬忠震の2人が神奈川沖のポーハタン号に赴いて艦上で実施された。

さらに条約調印問題と同時に、幕府内部には後継者争いが勃発していました。
一橋家当主・徳川慶喜(斉昭の七男)を擁立する一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す南紀派が対立。互いに多数派工作を活発化させていました。


この将軍継嗣問題の対立構図は以下のとおりです。



◆ 南紀派(徳川慶福を支持)

  • 井伊直弼(大老)
  • 平岡道弘(御側御用取次)
  • 薬師寺元真(御側御用取次)
  • 松平容保(会津藩主)
  • 松平頼胤(高松藩主)
  • 水野忠央(紀伊新宮藩主)

など…


VS


◆ 一橋派(一橋慶喜を支持)

  • 徳川斉昭(前水戸藩主)
  • 徳川慶勝(尾張藩主)
  • 松平慶永(越前藩主)
  • 島津斉彬(薩摩藩主)
  • 伊達宗城(宇和島藩主)
  • 堀田正睦(老中、佐倉藩主)

など…



ここで正睦は立ち位置に苦悩します。斉昭や慶喜に好感情を持ってはいませんでした。加えて斉昭は国内を代表する強硬な攘夷派です。意見も度々衝突していました。



対して南紀派の井伊直弼とは親しい間柄で、開国路線を支持しています。通常ならば正睦は南紀派に所属するものと思われますが、ここで現実的な判断を優先。朝廷の支持を受け、現況を打開するには慶喜が次期将軍に相応しいと考えたのです。


結果として正睦は一橋派に所属することになりました。


失脚・隠居

同年、将軍・家定は井伊直弼を大老職に任命。直弼は正睦を含めた一橋派の弾圧を開始。いわゆる「安政の大獄」のはじまりです。


6月に、正睦は登城停止処分を下され、老中職を罷免。同時に帝鑑間詰を命じられます。溜間詰は政治に関わる場所です。ここからの追放は、すなわち国政の表舞台から放逐されることを意味していました。


安政の大獄のイメージイラスト

安政6(1859)年、正睦は家督を四男・正倫に譲り隠居。自らを見山と号しています。


この隠居は大老・井伊直弼に命令によるものでした。正睦と同様に、永井尚志ら一橋派も蟄居させられています。これに連座した形での処分でした。


しかし直弼は正睦の再登用を検討しています。実際、安政の大獄においては他の一橋派の大名は閉門や永蟄居などの厳正に処分されていました。その中でも正睦だけは不問に付されています。


正睦は井伊直弼との間に確たる信頼関係がありました。心情的にも政治的にも通じるものがあり、いずれは政治の表舞台に復帰することは十分に可能だったはずです。


安政7(1860)年3月、井伊直弼が桜田門外で水戸浪士らに襲撃を受けて討たれてしまいました。
幕府の権威が完全に失墜すると同時に、正睦の復帰の道は絶たれてしまいます。


文久2(1864)年、正睦は朝廷と幕府の双方から蟄居を命じられました。
このため国許の佐倉城での生活を余儀なくされます。処分理由は老中在職中の外交取扱不行届というものでした。実際は安政の大獄に対する報復人事のようです。


元治元(1864)年、正義は佐倉城の松山御殿で亡くなりました。享年五十五。戒名は文明院見山静心誓恵大居士。墓所は佐倉市の甚大寺にあります。没後ほどなくして、正睦の蟄居処分は解除されてました。


大正4(1915)年には従三位が追贈されています。



【主な参考文献】
  • 『国難を背負ってー幕末宰相 阿部正弘・堀田正睦・井伊直弼の軌跡』 論創社 2011年
  • 土居良三 『評伝・堀田正睦』 国書刊行会 2003年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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