「斎藤弥九郎」神道無念流!江戸三大道場の一角にして、幕府近代軍制の推進者

 幕末の動乱期ほど、本来の目的で剣術への需要が高まった時期はなかったかもしれません。当時はすでに現代剣道に近い、防具と竹刀を用いた直接打突制の稽古法が浸透しており、大都市ばかりか農村地帯でも剣術を嗜む者が多くいました。

 実際に新撰組の例が代表するように、農民出身の剣士が幕臣に取り立てられるなど、剣術の隆盛と反比例するかのように旧来の封建体制は綻びを生じていきました。特に江戸には日々、全国から文武の研鑽を目的に多くの人材が訪れており、剣術道場はそんな留学生らを受け入れる機関でもありました。

 幕末の有名な例でいえば土佐の坂本龍馬は北辰一刀流の千葉道場へ、同じく土佐の武市半平太は鏡新明智流の桃井道場へ、といった具合に有名道場での修行経験がひとつのステータスになりえました。そして、殊のほか長州出身者に好まれたのが神道無念流の斎藤道場です。

 その主は4代宗家・斎藤弥九郎善道(さいとう やくろう よしみち)。先の千葉・桃井と合わせて「江戸三大道場」に数えられ、その剛毅な剣風から「力の斎藤」と称された剣術家です。今回はそんな神道無念流剣術の大家・斎藤弥九郎の生涯を概観してみましょう。

出生~江戸修行時代

 斎藤弥九郎は寛政10年(1798)、越中国射水郡仏生寺村(現在の富山県氷見市仏生寺)の斎藤新助信道の長男として生を受けました。斎藤家は農家でしたが、組合頭という村政を主導する役職のひとつを務めていました。

 文化7年(1810)、弥九郎は12歳で越中・高岡へと奉公に出て商家での丁稚を経験しましたが、この勤めはうまくいきませんでした。文化9年(1812)に江戸に出ることを望み、両親からこれを許されます。野宿をしながら道中で荷担ぎなどをして稼ぎ、単身で江戸へと至りました。

 江戸では幕臣・能勢祐之丞の小者としての職を得、能勢邸に住み込みで働いて終業後には書物での自習を続けました。その勤勉さから主の能勢祐之丞は弥九郎に目をかけ、本格的な文武の学習を勧めました。

 儒学は古賀精里、兵学は平山行蔵、文学は赤井厳三、馬術は品川吾作と、当代一流の教授陣についたことがうかがえます。そして剣術の師となったのが神道無念流3代宗家・岡田十松吉利でした。

 弥九郎はこれらの師のもとで文武の修練に打ち込み、20代で岡田十松の道場・撃剣館の師範代を務めるまでの腕前に成長します。

練兵館創設時代

 弥九郎が道場主として独立を果たしたのは文政9年(1826)のことで、江戸九段坂下の俎橋に剣術道場・練兵館を創設しました。

 冒頭で述べた通り、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡心明智流・桃井春蔵の士学館と並び、のちに江戸三大道場として勇名を馳せることになります。ここで弥九郎が修めた神道無念流剣術について、少しその内容について触れておきましょう。

 「力の斎藤」と異名をとったことから剛剣タイプの流派とされていますが、この「力」というのは単純な筋力のみを指したわけではありませんでした。当時はすでに防具と竹刀を用いた稽古法が採用されていましたが、神道無念流では軽い打突は一本と認めず、真剣で両断するような激しい打ち込みを旨としました。そのため、当流の防具は牛皮などで頑丈に補強されていたともいわれ、荒稽古で知られていました。

 現代にも伝承されている神道無念流の剣術形を見ると、派手さのない重厚な風格をもっており、連続しての強力な斬撃や零距離に近い間合いで肉弾戦といえるような太刀遣いをするなど、苛烈な剣法であったことがうかがえます。

 弥九郎の時代ではすでに直接打突制を採用していたため、試合を通して他流派との交流が盛んだったことも大きな特徴のひとつです。のちに2代・斎藤弥九郎を襲名する弥九郎の長男・新太郎は諸国を巡って武者修行を行い、各地でその術の優れていることを印象付けました。

 特に神道無念流を高く評価したのが当時の長州藩で、江戸遊学に出た長州藩士らの多くが弥九郎のもとで学びました。練兵館で塾頭を務めた桂小五郎を筆頭に、高杉晋作・品川弥次郎・井上聞多(のちの馨)・伊藤俊輔(のちの博文)・太田市之進ら、幕末~近代史に名を残すそうそうたる顔ぶれが見てとれます。

幕末期までの国防活動時代

 弥九郎が道場を開設する際、多大な資金援助を行った人物がいました。のちに伊豆・韮山代官に就任し、幕府への西洋式砲術の導入を推進した江川英龍です。彼は撃剣館における弥九郎の兄弟弟子であり、自身も神道無念流免許皆伝という達人でもありました。

 天保6年(1835)に英龍が韮山代官になると、弥九郎は乞われて代官手代に就任。特に日本の海防に強い問題意識を持っていた英龍の意向で、砲術の大家・高島秋帆から洋式砲術を学び、天保12年(1841)には秋帆が徳丸原で行った軍事演習にも参加しています。

 一方で弥九郎の道場・練兵館は天保9年(1838)に火災で焼失し、九段上の三番町へと移転しました。同年には弥九郎の働きが水戸藩主・徳川斉昭の目に留まり、合力扶持を受けています。このことは神道無念流の同門であった水戸学の大家・藤田東湖らの働きかけによるところが大きかったと考えられています。

 嘉永6年(1853)から翌安政元年(1854)にかけては英龍を補佐して、品川沖に砲台を建設するための測量作業や現場監督などを務めました。安政元年は黒船が江戸湾に再来航した年であり、弥九郎はもし品川沖にまでペリー艦隊が侵入してきた場合に国外退去の交渉を行う任務を帯びていました。

 同年2月には江戸長州藩邸において、長州藩士への剣術教授に関する功績で表彰を受けました。また、同4月には福井藩の江戸藩邸で70数名の門弟とともに剣術試合と西洋式砲術での戦闘機動の演武を行いました。

 このように、弥九郎は極めて幕府中枢に近い位置で国防活動に従事しており、単なる剣術家という枠に収まらない、軍人的ともいえる職掌に携わったのです。

 安政3年(1856)には水戸藩の小石川藩邸において、徳川斉昭の御前で銃部隊・槍部隊・剣部隊による3隊対抗の野試合を披露しています。明らかに西洋式野戦を想定しての軍事調練であり、軍制の近代化に関係していたことがわかります。同年、弥九郎の名を長男・新太郎に譲り、自身は篤信斎を名乗ります(以降も「弥九郎」で統一)。

 安政5年(1858)、代々木八幡宮近くの荒れ地を購入した弥九郎は、将来的に必要となる銃砲激戦用の台場築造の訓練として、これを門弟らに開拓させます。

 その一角には山荘を設け、文久2年(1862)にはここに萩藩の世子・毛利定弘(元徳)の来訪を受けました。この時弥九郎は、藩論を統一して攘夷を実行するべく進言したといいます。

 翌年には長州からの依頼で、選抜した門弟10数名を勇士組として派遣。しかし維新時には抗戦は行わず、明治元年(1868)に彰義隊からの首領就任要請があったものの、これを断りました。

維新後~最期

 同年、明治政府からの徴命に応えて会計官判事補に就任、8月に大坂へと赴任します。次いで会計官権判事に昇進し翌年7月に造幣局権判事となり同9月に造幣寮に出仕しました。

 翌明治3年(1870)5月に東京帰還の命を受けましたがほどなく病を得、明治4年(1871)10月24日、東京牛込の自宅において73年の生涯を閉じました。

 弥九郎の遺言に従い、当初は代々木山荘の敷地内に葬られましたがのちに小石川の昌林院に移葬。明治38年(1905)に代々木・福泉寺に移されました。

おわりに

 「力の斎藤」と評された流儀の主・斎藤弥九郎は、剣客であるとともに幕府の近代軍制導入に深く関与していました。内外の具体的な緊張感が高まる時代にあって、剣を通じて学んだ「守る力」について日々思いを巡らせたように感じられます。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本歴史地名大系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『歴史群像シリーズ 日本の剣術』 歴史群像編集部 編 2005 学習研究社

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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