「千葉栄次郎」渋沢栄一の師にして、北辰一刀流最強!?早逝の天才剣士
- 2021/08/19
日本でもっとも盛んに行われた武術といっても過言ではない剣術。伝統的な訓練は形稽古ですが、江戸中期頃から防具の原型となるものが登場し、幕末時点では現代の剣道に近い形状となっていました。防具と竹刀を用いることで、比較的安全に直接打突制の試合を行うことができるようになり、流派間の交流も活発になっていきます。
幕末には武士だけではなく、町人や農民も広くこうした剣術を学べるようになり、職業としての剣術家が隆盛を極めた時代だったといえるかもしれません。そんな剣術流派のうち、「江戸三大道場」と称されたのが神道無念流・練兵館、鏡心(新)明智流・士学館、そして北辰一刀流・玄武館でした。
なかでも北辰一刀流は当時新興の流派ながら多くの名剣士を輩出し、江戸遊学中の坂本龍馬もこの剣を学んだことが知られています。創始者は達人として有名な千葉周作ですが、その次男・千葉栄次郎(ちば えいじろう)は父をも凌ぐと噂された、天賦の剣才の持ち主でした。
実は2021年大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一も、若年時に栄次郎から剣を学んでいました。今回はそんな栄一の師でもある天才剣士・千葉栄次郎の生涯についてみてみることにしましょう!
幕末には武士だけではなく、町人や農民も広くこうした剣術を学べるようになり、職業としての剣術家が隆盛を極めた時代だったといえるかもしれません。そんな剣術流派のうち、「江戸三大道場」と称されたのが神道無念流・練兵館、鏡心(新)明智流・士学館、そして北辰一刀流・玄武館でした。
なかでも北辰一刀流は当時新興の流派ながら多くの名剣士を輩出し、江戸遊学中の坂本龍馬もこの剣を学んだことが知られています。創始者は達人として有名な千葉周作ですが、その次男・千葉栄次郎(ちば えいじろう)は父をも凌ぐと噂された、天賦の剣才の持ち主でした。
実は2021年大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一も、若年時に栄次郎から剣を学んでいました。今回はそんな栄一の師でもある天才剣士・千葉栄次郎の生涯についてみてみることにしましょう!
出生
千葉栄次郎成之は天保4年(1833)、北辰一刀流開祖・千葉周作成政の次男として生を受けました。周作の道場と居宅は文政8年(1825)、それまでの日本橋品川町から神田お玉が池に移転しており、ここで誕生したと考えられます。栄次郎についての幼少期の記録は少ないものの、父・周作のもと北辰一刀流の英才教育を受けて育ったことが想像されます。栄次郎は四人兄弟ですがそのすべてが同門であり、また叔父にあたる千葉定吉は桶町に北辰一刀流の道場を構えており、周作の「大千葉」に対してこちらは「桶町千葉」「小千葉」と呼ばれていました。
定吉にも四子があり、名人として有名な千葉重太郎や女流剣士の千葉佐那が知られています。坂本龍馬が修行したのはこの小千葉道場で、さまざまなエピソードは周知の通りです。
このように、兄弟・従兄弟の一族で流派を盛り立ててきた環境で、栄次郎は成長していったのです。
剣士としてのエピソード
栄次郎の剣名は20歳前にはすでに知れ渡っており、父・周作を凌ぐとさえ評されました。北辰一刀流・玄武館の伝承によると、特に突きの名手として知られ、「二段突」「三段突」「小手懸突」などの技名が伝わっています。これは単に2回・3回と突きを繰り出すという意味ではなく、波状的な攻めで相手の防御を崩して突く技と考えられます。
また、「右片手上段」という構えによる戦法は無類と評されました。これは文字通り、両手ではなく右手一本で竹刀を頭上に構えるスタイルで、ごく稀ではありますが現代剣道でもこの構えをとる剣士が存在します。
ただでさえ攻撃に特化したといわれる上段系の構えのうち、もはや打ち込むことしかできないともいえる捨て身の戦法です。火のような気迫で相手を圧倒する必要があることから、栄治郎は心身ともに激しく充実した、自信に満ちた剣風であったことがうかがえます。
その強さを示すエピソードは多く伝わっていますが、津幡および岡藩江戸藩邸での他流試合の例を挙げましょう。
複数流派が一堂に会して大名の前で勝負をすることは、文字通り自流の威信をかけての戦争でした。嘉永2年(1849)に行われた、その他流試合において、当代随一と名高い遣い手たち18名と剣を交え、全員に勝ち越しました。
勝ち越し、ということですのでもちろん負けた勝負もありましたが、当時の礼儀として例えば3本勝負で2本とれば、もう1本は相手にゆずるというならわしがあったといいます。
勝率は9割ですが、あるいは全力で戦えばさらに高くなったかもしれません。
これには後日談があり、この時の試合では対戦することのなかった直心影流・柿本清吉とのちに栄治郎が試合をしたとき、3本を取られて完敗しました。しかし栄次郎はしばし黙考すると再戦を申込み、先ほど柿本が遣った技や戦法をそのまま駆使して3本を取り勝利。さらに日を改めて再々戦した際には、栄治郎はその技を完全に自分のものとしており、柿本を寄せ付けなかったといいます。
この他にも、同様の話は以後もたびたび見受けられ、栄治郎は一度敗北した相手には二度と負けないことでも有名でした。先述の柿本清吉戦で見られたように、相手の技や太刀遣いをコピーして自分のものにするという、観察・洞察・吸収の能力をもっていたことが大きいでしょう。
そんな栄次郎ですが、すべての状況において好戦的だったわけではないようで、嘉永7年(1854)に鉄人流・牟田高惇(むた たかあつ)から立ち合いを申し込まれた際には、再三の要求をすべて断っています。
鉄人流といえば二刀の操法で知られる流派で、開祖は宮本武蔵に学んだ剣客だったとされています。栄次郎がなぜ試合を断り続けたかわかっていませんが、牟田は自身の日記でそのことを「腰抜け」と痛罵しています。しかし裏を返せば、栄治郎は無類の強さを誇りながらも「戦わない」という選択ができる人物だったという証拠でもあります。
水戸藩仕官時代~最期
栄次郎は先の牟田高惇からの挑戦を受ける前の嘉永6年(1853)に、水戸藩士として出仕しています。父・周作は水戸藩剣術師範に就任し、のちに馬廻役に登用されて100石の扶持を受けるという、れっきとした水戸藩士の身分でした。しかし栄次郎は、剣術指導において水戸藩士らとの間にトラブルを起こしてしまいます。
それは周作の代稽古として、水戸藩校・弘道館で剣術教授を行なった時のこと。試合形式の稽古の際、栄次郎は竹刀を頭上で回したり、股の間をくぐらせたり、果ては高々と放り投げるなど、過度に挑発的な挙動を行いながら相手を翻弄しました。
栄次郎がなぜこのようなことをしたのかはわかっていませんが、現在のような競技としてのルール整備が途上にあった当時では、奇抜な手段で試合を制した例が散見されます。
挑発をされること自体が未熟であるという当時の意見もありますが、何かこうした示威行動をせずにはおれないような事情が栄次郎にあったのではないかとも想像させます。ですがいかに教授といえど、礼を失したこの行為は水戸藩士らの怒りを買い、栄次郎は謝罪を行っています。
そんな栄次郎でしたが、嘉永6年(1853)の仕官時から小十人組、馬廻と出世し、最終的には文久2年(1862)に大番頭に昇進しています。大番頭とはいわば警備部門の責任者のような立場で、水戸藩内においても上級士分としての扱いであったことをうかがわせます。
しかし昇進の翌日、同年1月12日に栄次郎はわずか29歳の若さで逝去しました。兄弟はいずれも短命で、長兄・奇蘇太郎孝胤は安政2年(1855)、末弟・多聞四郎政胤は文久元年(1861)に亡くなっています。
北辰一刀流の道統は、栄治郎のすぐ下の弟・道三郎光胤によって受け継がれることになります。
おわりに
「剣術」が「剣道」へと変遷していく、過渡期の時代ともいえる幕末。防具と竹刀で自由に技を繰り出しあって剣技を磨くことは、もしかすると現代でいうスポーツ的な楽しさにも満ちていたのではないでしょうか。千葉栄次郎は早逝が惜しまれる天才剣士の一人ですが、その心技は多くの門弟に受け継がれました。北辰一刀流はその後も時代の荒波に直面しつつ、現在にまで脈々とその技法と魂を伝えています。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
- 『歴史群像シリーズ 日本の剣術』 歴史群像編集部 編 2005 学習研究社
- 北辰一刀流 玄武館
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