「大川平兵衛」神道無念流の達人にして、農村への剣術普及の大功労者!川越藩剣術師範

帯刀コロク
 2021/10/20

大川平兵衛のイラスト

2021年度大河ドラマ『青天を衝け』は、日本近代資本主義の父とも呼ばれる渋沢栄一を主人公としていますね。 劇中では幼少から青年期の栄一が、学問や剣術の修行に励むシーンが印象的に描かれています。

当時は農村においても子弟教育として文武の教授が盛んであり、剣術もさまざまな流派が稽古されていたことがわかっています。 剣術は武士の表芸というイメージがありますが、幕末には農村社会でも広く浸透しており、農民出身の剣の達人が多く輩出されました。 動乱期における自衛手段としての意味はもちろんですが、その陰には農村社会へと剣術を普及させるために尽力した剣士たちがいました。

渋沢栄一が最初に学んだ流派である神道無念流の、「大川平兵衛」もその一人です。栄一の師である渋沢宗助は、この平兵衛に剣術を学んでおり、彼にとって平兵衛は師祖父にあたる人物といえます。

平兵衛自身も農民の出身ながら、やがて藩お抱えの剣術師範として仕官した経緯があり、士・農を問わず剣術指導に生涯をささげました。今回はそんな知られざる達人、大川平兵衛の生涯についてみてみることにしましょう。

出生~壮年期

大川平兵衛は享和元(1801)年、武蔵国埼玉郡上之村(現在の埼玉県熊谷市上之)で農家・渡辺家の三男として生を受けました。

平兵衛は幼少時に上之村名主の小鮒新右衛門の養子となり、栄次(治)郎と名乗りました(以下、平兵衛で統一)。この小鮒家は、忍城の城主だったことで知られる成田氏の旧臣でした。

平兵衛は幼くして剣術の才能を示し、箱田村(現在の埼玉県熊谷市箱田)の剣客・秋山要助の道場に入門しました。

この秋山要助も農民の出身ながら、父である秋山善太郎に鹿島新当流の手ほどきを受け、のちに神道無念流2代・戸賀崎暉芳から同流の印可を授かった人物です。

家業の農業への従事と剣術修行を両立させた平兵衛は、20歳の頃に免許皆伝を授かります。

文政5(1822)年には、入間郡横沼(現在の埼玉県坂戸市横沼)の名主だった大川与左衛門の娘・糸と結婚して婿養子となり、これを機に「大川平兵衛秀勝」と名乗るようになりました。

平兵衛は大川家の邸内と川越・通町に道場を設け、秋山要助から学んだ神道無念流の教授を行うようになります。 元来、神道無念流は虚飾のない剛の技で知られ、江戸の斎藤弥九郎道場は「江戸三大道場」のひとつに数えられました。

その剣風と宗家の名から「力の斎藤」の異名をとったことは有名です。 平兵衛の剣術も師の要助、そして流派の特徴を継いだ重厚で手堅い太刀筋で知られたといいます。

しかし、当地には伝統ある甲源一刀流という剣術流派が勢力をもっていました。 平兵衛の神道無念流はいわば新参であり、在地流派との軋轢も皆無ではなかったようです。

天保7(1836)年1月、平兵衛は甲源一刀流第5代を継ぐ逸見長英と試合をし、敗北を喫します。 一説によると当時の神道無念流は胴技に弱点があり、そこを攻められて不覚をとったともいわれています。

しかし半年ほどのちに甲源一刀流高弟と再戦、胴技への対策を研究してのぞんだとされ、見事に勝利したことが伝わっています。

川越藩仕官時代

身分としては苗字帯刀を許された農民(名主)であった平兵衛ですが、弘化5(1848)年に縁あって士分に取り立てられ、川越藩に13石4人扶持で仕官することになりました。

ただしこの時点では平兵衛一代限りのことで、徒士(かち)という主君の警備にあたる歩兵相当の身分でした。 平兵衛は川越藩の剣術をより実用的に変革するという夢をもっていたとされますが、その待遇は必ずしも恵まれていたわけではありません。

川越藩では身分によって武術流派に定めがあり、上級~中級藩士が学ぶ「表稽古」と、下級藩士や足軽らが学ぶ「内稽古」に大別されていました。平兵衛は神道無念流の教授こそ許されていたものの、その実態は藩からの予算がおりない内稽古としての扱いでした。

また、剣術や柔術などの各武術について複数流派を学ぶことは許されておらず、川越藩では伝統的な形稽古が主流だったようです。その証拠として、現代剣道のような防具・竹刀使用による直接打突制の稽古を採用していたのは平兵衛だけでした。 当然のごとく他流試合も禁止されており、保守的な藩風だったことがうかがえます。

平兵衛は下級藩士や足軽層の門弟に指導を行いながら、嘉永2(1849)年には自費で藩外への出稽古に赴く許可を藩から取り付けます。

これは川越藩はじまって以来のことであり、農民・町人層との試合は禁じられていましたが平兵衛は積極的に交流試合を行いました。 自身の道場でも藩外からの修行者を受け入れて他流試合を行っていましたが、その受け入れ手続きには藩の許可が必要で非常に時間のかかるものでした。

その簡略化の意見具申が採用されたのは、実に文久2(1862)年のことだったといいます。

平兵衛は実は安政2(1855)年に、川越藩士を辞任する願いを出しています。 しかし藩はこれを慰留し、平兵衛一代限りの仕官から子孫代々が仕えられる「御譜代」へと待遇改善を行っています。 それほどまでに、平兵衛は必要とされた人材だったのでしょう。

川越藩軍制改革~前橋藩仕官時代

保守的な藩風が目立つ川越藩でしたが、幕末期における内外の緊張感の高まりから、軍備を再考する必要に迫られていました。

剣術などの武術修行に対する取り組みもその影響を受け、文久2(1862)年に第7代藩主となった松平直克のもと、これまでの方針を一新する形で他流試合が解禁されました。平兵衛の流派のみは長い他流試合の実績があり、神道無念流はにわかにその存在感を高めていきます。

平兵衛は徒士から大役人に昇格、新規に剣術を学ぶ下級藩士には神道無念流の修行が義務化されました。 神道無念流師範として藩公式の役職を得た平兵衛でしたが、これに旧来の勢力が激しく反発し、川越藩の剣術改革は一時的に頓挫することになります。

しかし藩の方針と平兵衛の地道な活動は支持を受け、徐々に上級・中級藩士の神道無念流入門者が増加。 元治元(1864)年7月には藩主導で流派の垣根を越えて合同稽古を行う、「寄合」という訓練方法が創出されました。

伝統的な「表稽古」の諸流派も平兵衛や、他流の防具・竹刀を用いた稽古法を積極的に採用するようになり、相互の技術交流が活性化していきました。

慶応2(1866)年に松平直克が上州・前橋藩主として移封されると平兵衛はこれに従い、前橋・練武所で指導を続け間もなく教授方に就任しました。

維新後~最期

維新後の明治2(1869)年4月、前橋藩は藩内の剣術を形稽古から直接打突制の稽古を中心としたスタイルへと移行。流派を統合して「新流」と総称し、それまで指南役を務めていた各流派の師範を全員解任しました。

平兵衛も例外ではなく、以降はその高弟や旧表稽古の流派のうち、神道無念流に理解を示していた人材らによって練武所が運営されていくことになります。

平兵衛は故郷の横沼へと戻り、明治4年(1871)年に70年の生涯を閉じました。 その技と心は門弟たちに受け継がれ、平兵衛の魂は横沼の大川家墓所に眠っています。

まとめ

農民出身の剣士として生涯をその道に捧げた大川平兵衛ですが、その子・修三は渋沢栄一の従兄である尾高惇忠の妹・みち子を妻とし、のちに「日本の製紙王」と呼ばれる実業家の大川平三郎が誕生しました。 さらに平三郎が妻としたのは渋沢栄一の娘・照子でした。

知られざる名剣士の血統は、脈々と日本近代化の立役者たちに受け継がれていたのです。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本歴史地名大系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 「江戸時代における埼玉県の剣術」『武道学研究 11-3』 志藤義孝 1979 日本武道学会

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...

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