意外と知らない!?戦国時代、武将たちに人気のあった娯楽をピックアップ!
- 2021/06/10
戦いに明け暮れていた戦国武将たちも、余暇にはさまざまな娯楽を楽しんでいました。武将らしい勇猛なアウトドア系の娯楽のみならず、現代でも愛好者が多いインドア系の娯楽や、当時からしてもマニアックな娯楽まで、内容は多種多様です。
取り組む姿勢も、純粋に趣味として楽しんでいた武将もいる一方で、公家や僧侶などと友達になり人脈を広げるために利用した武将も少なくありません。そこで今回は、意外と知らない「戦国武将の娯楽」について、その種類やエピソードなどをご紹介します。
取り組む姿勢も、純粋に趣味として楽しんでいた武将もいる一方で、公家や僧侶などと友達になり人脈を広げるために利用した武将も少なくありません。そこで今回は、意外と知らない「戦国武将の娯楽」について、その種類やエピソードなどをご紹介します。
※記事内に取り上げてある娯楽の大半は、薩摩島津家の家臣・上井覚兼(うわいさとかね/かくけん)の記した『伊勢守心得』に記載されています。
武術
戦国武将の必須スキルともいえる武術。弓術・馬術・剣術など種目は多岐にわたり、武将によって好みも分かれていました。島津家では馬術と弓術を特に奨励していました。鹿児島では祭礼や貴人の接待の際、馬に乗りながら弓を射る「流鏑馬」や「犬追物」を家臣が披露していました。これらは鎌倉武士の嗜みでありましたが、戦国時代では出来る人が少ない高度な技との事で、参加できることは島津家内でも名誉なことでした。
織田信長は相撲好きと言われており、城下町で度々相撲大会を開催した記録が残っています。信長の相撲大会には四股名を持つプロの力士が参加しており、相撲がすでにビジネスとして成立していたほど人気があったことが分かります。
ハンティング
戦国武将には狩も人気でした。『伊勢守心得』にも有名な鷹狩のほか、弓矢や鉄砲を使った狩、釣り、鵜飼が挙がっています。『伊勢守心得』の著者・上井覚兼は特に狩が好きで、彼の日記にも火縄銃を担いで猪や鹿を狙いに連日山野に繰り出した様子が記されています。
鷹狩は鷹で鳥や小動物を狙います。役割を分業して数百人規模で実施されることもあり、ちょっとした軍事演習もかねていました。鷹狩好きの戦国武将として、織田信長や徳川家康、伊達政宗などの逸話が残っています。狩の獲物は贈り物としても珍重され、あるじ自ら狩った獲物は賓客をもてなす最高の御馳走とされました。
コラム:戦国のペット事情
鷹や馬に加えて、現代で人気が高い犬や猫もまた武将たちをメロメロにしていました。猫
猫の虜になった人といえば、上杉謙信や織田信長と親交のある公家・近衛前久です。慶長年間(1596~1615年)のある日、近衛家に島津義弘から子猫が数匹届いたものの、あっという間に前久の娘や妻がとってしまいました。がっかりした前久は、義弘に「自分用にもう一匹贈ってくれ」と懇願する手紙を出しており、猫に対する並々ならぬ情熱がうかがえます。犬
戦国時代には西洋犬が到来し、武将の間で飼育が始まっていました。おなじみ上井覚兼も、天正11(1583)年10月に九州の戦国大名・有馬晴信から白い西洋犬を贈られました。幸か不幸か犬の噂は大坂まで伝わり、あの豊臣秀吉の弟・豊臣秀長から「譲ってくれ」と懇願されて、覚兼は犬を手放しました。間もなく覚兼は亡くなり、犬の消息も途絶えます。一見恐ろしそうな戦国武将が猫や犬にデレデレしている姿を想像するのも、ちょっと楽しいかもしれません。
囲碁・将棋・双六(すごろく)
現在でも人気が高い囲碁や将棋は、戦国武将にもまた人気でした。これらのゲームは、室町時代に貿易を通じて中国からもたらされたと言われており、戦国時代には禅宗寺院や僧侶を介して民間に広がっていました。この頃から囲碁のプロ棋士も登場しはじめ、武将宅や貴族邸に出入していました。本能寺の変直前に信長と囲碁をしたという本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)はその代表です。
また戦国大名と家臣が碁盤を囲むこともありました。武田二十四将の一人・高坂弾正昌信はとくに囲碁が上手だったそうで、囲碁の比喩で主君を諫めた逸話も残っています。
楽器
楽器に造詣の深い戦国武将も多くいました。琵琶や琴なども好まれましたが、当時は尺八の一種である「一節切(ひとよぎり)」が特に流行し、一乗谷はじめ武将ゆかりの遺跡で出土が確認されています。長野県の貞松院に伝わる「乃可勢(野風)」という一節切は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に伝わったとされる逸品です。
ガーデニング
ちょっと渋めの趣味として、生け花や盆栽があります。生け花も盆栽も、もとは将軍や天皇家の宴を彩る座敷飾りの一つとして権力者とともに発展しました。戦国武将の台頭により、彼らの座敷飾りとしても需要が増していました。盆栽は当時「盆山」「鉢木」と呼ばれ、名品の収集がさかんに行われました。生け花は公家の間で流行し、皇子や公家が作品を持ち寄り品評会も行っていました。戦国武将たちは茶の湯の普及とともに、座敷飾りとしてその文化や精神を受容していきました。
サークル活動
複数名で集まって行う娯楽も、戦国武将に人気でした。単にワイワイ楽しむ以外にも、娯楽を媒介にして様々な立場の人が集まるため、情報収集や人脈づくりという点でも有用でした。連歌
最も有名な趣味サークルは連歌です。参加者が順番に上の句・下の句をつけてゆく連歌は、古典の教養のみならず、場の雰囲気を読むコミュニケーションスキルも求められる高度な娯楽でした。古典教養といっても、当時は書物がほとんど流通していないので、勉強するにも伝手をたよって本を借りてきて写すところから始めなければならない環境でした。参加するハードルは高いですが、連歌愛好家には公家も多くいたので、仲良くなれば朝廷の情報も手に入りました。また連歌師の情報網も強力です。
たとえば「本能寺の変」の直前に明智光秀と接触していた人物に連歌師の里村紹巴がいるように、彼らはいろいろな家に出入していたので、仲良くなれば他家の内情も教えてもらえたかもしれません。
茶の湯、酒宴
飲食を媒介にしたサークル活動もありました。代表的なものは茶の湯で、織田信長が愛好していたことや、豊臣秀吉と千利休の確執、黄金の茶室などの逸話も有名です。茶の湯も、公家や町人、武将らが一堂に集まる貴重な機会を演出していました。また、武将たちは酒宴も大好きです。現代では来訪客にお茶やコーヒーを出しますが、戦国時代はそれが酒でした。とくに貴人が来る場合は総出で酒宴の準備をし、一晩中飲み明かすこともよくある光景でした。
その他にこんなことも!?マニアックな娯楽
解体ショー
戦国時代、酒宴の余興として座敷で鳥や魚の解体ショーをやることがありました。通常だと武将自らは行わないのですが、明智光秀の友人で文化人として有名な細川藤孝は、解体ショーすら巧みにこなしていたそうです。能楽
京都の混乱により、将軍や貴族の趣味であった能楽鑑賞も、題材になった古典とともに各地に伝わりました。武田家・北条家・長宗我部家では能楽師を雇用しており、祭礼など折に触れて上演していました。中には自ら舞う者もおり、たとえば豊臣秀吉は文禄の役で名護屋城にいた折に能楽を習い(50日で15曲も!)、帰京後に前田利家や徳川家康を巻き込んで能の披露をしています。
蹴鞠
サッカーのリフティングみたいな競技です。もともと公家の趣味でしたが、戦乱で地方に逃れた公家から教わる武将もいました。あの信長の父親・織田信秀も尾張に来た公家から免許をうけています。印地打ち(庶民)
「印地打ち」は雪合戦のごとく双方の陣営が石を投げあう遊びです。ご想像の通り荒っぽい遊びで、死傷者も出ました。祭礼とともに行われることも多く、神事の一つでもあったようです。投石は実戦でも用いられていたので、娯楽といえども実用的な側面もありました。おわりに
『易経』にいわく、治に居て乱を忘れず。乱世を生き抜く戦国武将たちは、遊んでいるように見えても、その背後には体力づくり、人脈作り、情報獲得、自己研鑽などさまざまな思惑が渦巻いていました。とりわけ情報伝達が人力だった戦国時代において、娯楽で得た人脈や情報は戦国武将にとって財産だったことでしょう。彼らにとって、娯楽は単なる遊びにとどまらず、まさに身を助ける芸だったのです。
【主な参考文献】
- 『大日本古記録 上井覚兼日記 下』(岩波書店、1953年)
- 新田一郎『相撲の歴史』(講談社学術文庫、2010年)
- 福田千鶴・武井弘一(編)『鷹狩の日本史』(勉誠出版、2021年)
- 桐野作人・吉門裕『愛犬の日本史』(平凡社、2020年)
- 桐野作人『猫の日本史』(洋泉社、2017年)
- 秋田昇一『囲碁文化の歴史を尋ねる』(新光社、2021年)
- 貞松院 公式HP 貞松院寺宝紹介
- 依田徹『盆栽の誕生』(大修館書店、2014年)
- 綿抜豊昭『戦国武将と連歌師』(平凡社、2014年)
- 前田雅之『書物と権力』(吉川弘文館、2018年)
- 盛本昌広『贈答と宴会の中世』(吉川弘文館、2008年)
- 桜井英治『贈与の歴史学』(中公新書、2011年)
- 曽我孝司『戦国武将と能』(雄山閣、2006年)
- 今谷明『言継卿記―公家社会と町衆文化の接点』(そしえて、1980年)
- 稲垣弘明『中世蹴鞠史の研究』(思文閣出版、2008年)
- 網野善彦『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫、1998年)
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