百万石の“こく”ってどんな単位?「一石」の意味を解説

 「三万石の大名」「加賀百万石」などといわれるように、「石(こく)」という単位が日本史にはしきりに登場しますね。特に大名や国・藩などの説明に付随することが多く、その数が大きければ大きいほど「なんだかすごそう」に感じてしまいます。

 国力や経済規模を表すことはイメージできるものの、そもそもこれは何を示す言葉なのでしょうか。今回は歴史上の重要な単位、「石」についてみてみることにしましょう!

石(こく)とは

 「石(こく)」とは日本において、メートル法以前に使われた基準である「尺貫法」による体積を表す単位です。かつては和船の積載量や材木の体積単位としても使われましたが、本コラムでは米の単位について解説します。

兵糧のイラスト

 米の一石は基本的に玄米の状態での計算となります。現代でも使う単位に「升(しょう)」があり、お酒の瓶やもち米などで「一升」といった数え方を目にします。

 一升は約1.8リットルで、10升で「一斗(いっと)」となります。業務用の油などでいまも「一斗缶(いっとかん)」があったり、灯油のポリタンクが約18リットルだったりするのがこの名残ともいわれています。

灯油ポリタンクと一斗缶(18リットル)のイラスト
灯油ポリタンクと一斗缶(18リットル)のイラスト

 そしてこの一斗の10倍、約180リットルを「一石(いっこく)」としています。石と書いて「こく」と読ませるのは特殊な例ですが、これはもともと中国で体積の単位として使われた「斛(コク)」の発音に準じたものです。

 また、一石は人ひとりが一年間に消費する米の総量とされることもあります。かつて一食につき米一合(いちごう:約0.18リットル)と仮定し、一日で三合・一か月で約九十合・一年で約千合といった単純計算で、千合が一石に相当しています。

 現代人が食べる精白米の量は一日に一合~二合の間ともいわれ、近代以前の食生活とは大きく異なっています。しかし、近世の江戸市中では庶民も潤沢に米を手に入れることができたとされ、僅かな香の物などで大量の米をとるという食事スタイルがみられました。

 このように白米に偏った食生活から、ビタミン不足由来の「脚気(かっけ)」が大流行して「江戸患い」と呼ばれたことは有名です。

 以上のように、米が経済と生活の中心的な価値基準に据えられた文化から、「石」という大きな単位でその量を把握する必要が生じたともいえるでしょう。

石高制(こくだかせい)について

米の石という単位について触れる場合、「石高制」についても理解が必要となるでしょう。日本史上その経済基盤は農地がメインであり、米の現物を税として徴収するシステムが伝統的でした。

 室町時代末までは荘園の名残として、「米高」「貫高(かんだか)」「蒔高(まきだか)」「刈高(かりだか)」などの言葉で経済規模を把握していました。

 現在知るところの「石高制」を統一的に採用したのは豊臣秀吉で、このシステムでは単純な年貢としての米の量を指していません。石高制ではまず検地による正確な耕地面積の実測と、上・中・下各ランクの田の3か所ずつで一坪だけ稲を刈って全体の収量を予測する「坪刈り」、さらにはその他の条件も加味して標準の平均生産高である「石盛(こくもり)」を求めます。

検地のイラスト

 石盛はその土地近辺の交通網や商工業の状況、特産品の有無などの各種条件が加味されて算定されており、米そのものだけではない地域を含めた資産価値のようなものが考慮されています。

 また、農業以外の生業を含めた地域全体の経済力や、政治・軍事的な重要性も勘案されました。この石盛を基準として、耕地や屋敷を上・中・下の等級に分けてそれぞれの公定生産高としたものが「石高」です。

石高制の意義と米中心経済の裏側

 豊臣秀吉が全国で強力に石高制を推進した理由は種々ありますが、このことでほぼ完全な兵農分離を実現したという指摘があります。

 公定生産高の把握によって統治者と農民との間で直接に税のやり取りを行い、中世的な土豪や有力農民の中間搾取を抑止する狙いがあったものとしています。つまり、反政府勢力が経済基盤をそだてる余地を残さないことで、政権の安定を図ったものとの見方もできるでしょう。

 一方で、歴史家の網野善彦が提唱したことで知られるのが、米作以外の産業による各地の総合的な清の経済力に関することです。公称の石高に比して富裕な藩や土地というものが存在し、それらは例外なく漁業や林業などの生業、その他特産品の生産が行われていました。

 そうした米作によらない経済基盤を、石高に換算して称える場合があります。有名な例では阿波国(現在の徳島県)の「藍」生産が挙げられ、「阿波25万石、藍50万石」の言葉が知られています。

 このように、「公称」と「実質」の石高には差異のある場合もありましたが、「石」という単位は経済力を象徴するもっともわかりやすい指標であり続けました。

おわりに

 「石」という大きな数字を表す単位で米の量を捉えた江戸時代は、金・銀・銭の三貨幣が並行して使われたうえ、米相場も日々変動していました。したがって江戸期を通じての貨幣価値は現代のそれと単純に比較することが困難となっています。

 江戸期の全国的な米の集散地としては大阪の「堂島米市場」が有名で、米切手と呼ばれる証券を用いた世界初の先物取引が行われていたことが注目されます。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本大百科全書』(ジャパンナレッジ版) 小学館

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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