「徳川昭武」慶喜の弟にして最後の水戸藩主!パリに派遣された“プリンス・トクガワ”

 江戸幕府最後の将軍として知られる徳川慶喜ですが、父・斉昭が子だくさんだったことから実に36人もの兄弟姉妹がいました。7男の慶喜は数奇な運命から将軍に就任しましたが、他の兄弟たちもそれぞれ時局に翻弄されながらも歴史に名を残しました。

 今回はそのうち、慶喜にとって16歳下の異母弟にあたる徳川昭武(とくがわ あきたけ)をピックアップしたいと思います。昭武はパリ万博出展のため渡欧したことでも有名で、また最後の水戸藩主としても知られています。そんな徳川昭武の生涯をみてみることにしましょう!

出生~少年期

 徳川昭武は嘉永6年(1853)9月24日、水戸藩主・徳川斉昭の18男として江戸駒込邸に生を受けました。母親は藤原北家勧修寺流の支流・万里小路家第24代・建房の六女、「万里小路睦子(までのこうじちかこ)」です。

 昭武の幼名は「余八麿」で、水戸徳川家の子弟は世子以外では松平姓を名乗る慣例から、初めての諱を「松平昭徳」といいました。号は「鑾山(らんざん)」、のちに贈られた諡号は「節公」といいます。

 昭武が生まれたのは、折しもペリー提督の黒船艦隊が来航した年であり、その後の激動の時代を象徴するかのようでもあります。幼少の昭武は父・斉昭の意向で他の兄弟たちと水戸の国許で養育されましたが、元治元年(1864)に京で病に倒れた兄・松平昭訓(あきくに)の看護を名目として、わずか満11歳にて上洛します。

 この昭訓は幼名を「余四麿」といった斉昭14男で、水戸藩主となっていた長兄・松平慶篤の補佐をしていました。昭武は昭訓の代理として慶篤の補佐役を務めるべく、従五位下侍従兼民部大輔に叙任され禁闕守衛の任務に就いています。

パリ万博派遣の時代

 慶応2年(1866)11月、昭武はそれまで20年間当主不在であった御三卿の清水徳川家を相続します。通常、後継者のいない家は取り潰しなどの処遇となりますが御三卿家は例外であり、当主なしで家だけを存続させる「明屋敷(あけやしき)」という制度がありました。昭武が当主となって20年ぶりに清水家を再興したのにはそのような背景があったのです。

 同月、昭武は将軍就任直前の慶喜から、名代としてパリ万国博覧会出典のため渡欧を命じられます。これは日本の歴史上、初となる国際博覧会参加であり、慶喜は自身の後継者として昭武に非常な期待を寄せていたと伝わっています。

 また、博覧会終了後も引き続きパリに滞在して長期留学につくようにも命じており、近代産業を含めたヨーロッパの先進文化や技術を学ばせつつ、日本国内での厳しい政局から遠ざける意図があったとも考えられます。

 昭武は清水徳川家を継いだ翌月に従四位下左近衛権少将に叙任され、慶応3年(1867)1月にパリへ向け横浜を出港しました。昭武、満13歳のことです。この時、一橋家家臣時代の渋沢栄一が派遣団に随行していたことはよく知られています。

 昭武が座乗したのはフランス船籍の蒸気船で、香港・サイゴン・シンガポール・セイロンなどに寄港しつつ、スエズ運河を通ってフランスへと至りました。この時、江戸幕府と親密な関係をもっていたフランスの植民地では丁重に遇されたものの、イギリスは幕府を正当な政権として認めていなかったため、その植民地では歓迎されなかったといいます。

 パリに到着した昭武は時のフランス皇帝・ナポレオン3世に謁見、国書を奉呈しました。ナポレオン3世と徳川慶喜の交流はそれまでによく知られており、それは1855年にフランス各地の養蚕業が病気による壊滅的ダメージを受けたことに始まります。

 この時、養蚕用の良質な繭と卵を提供したのが日本であり、1858年には自ら訪日するなど積極的に両国の関係構築に動いていました。慶喜を写した有名な写真のうち洋式軍服を身につけたものがありますが、それがナポレオン3世からの贈りもののひとつでした。

 パリ万博には幕府・薩摩藩・佐賀藩が出展しましたが薩摩は幕府方とは独自の別行動をとり、日本国内の情勢を如実に表していました。昭武は博覧会終了後もイギリス・オランダ・イタリア・スイス・ベルギーなどのヨーロッパ各国を歴訪し、イタリア国王から一等勲章を贈呈されるなど幕府外交政策に重要な役割を果たしました。

 当時イギリスの報道では、昭武を指して「プリンス」と呼ぶ報道が行われました。これは現将軍の実弟であり、また将軍職継承権を持つ人物であることからの敬称でしたが、年若い東洋の貴人への興味も多分に含まれていたことでしょう。昭武らがもたらした日本の文物は、のちに「ジャポニスム」と呼ばれる潮流を生み出す契機ともなりました。

 慶喜の命に従ってその後もパリで留学生活を送った昭武でしたが、慶応4年(1868)1月に大政奉還の報せを受け取り、同3月には鳥羽・伏見の戦いがフランスの新聞でも報道されるという事態になります。昭武らわずかな要因を残して随行団は帰国し新政府からも帰国要請が届きましたが、兄・慶喜からはそのまま滞在して留学を続けるようにとの手紙が届いたといいます。

 しかし5月にはフランス政府に向けて新政府からの帰国命令が届いたため帰国を決意。同年9月4日にイギリス船籍の船でフランス・マルセイユ港を船出し、11月3日に神奈川へと帰還しました。

水戸藩主就任~陸軍教官時代

 帰国直前に長兄・慶篤の訃報をパリで受け取った昭武は、その時に後継者の指名を受けていました。わずか満14歳のことでしたが当時の水戸藩内では内紛が絶えず、早期の政情安定化が急務とされる時期でした。

 昭武が水戸藩主を継承したのは明治2年(1869)のことでしたが、ほどなく版籍奉還によって統治体制は刷新され、水戸藩知事という立場になります。

 翌明治3年(1870)には北海道・天塩5郡の開拓を開始しましたが、同4年の廃藩置県により北海道開拓使へと移管されました。昭武は水戸藩知事職を解かれ、東京・向島の旧水戸藩邸で暮らすことになります。しかし明治7年(1874)には陸軍少尉として任官。軍事教養を講じる教官として、陸軍戸山学校に勤めることになりました。

 翌年には華族・中院道富(なかのいんみちとみ)の娘、盛子と結婚しますが、明治9年(1876)にはアメリカ・フィラデルフィア開催の万国博覧会へと派遣されます。この時に軍籍は離脱し、引き続き翌年には兄弟らとともにパリへと再留学。その後ロンドンにも滞在し、明治14年(1881)に帰国すると同年末に従三位に叙任され麝香間祗候を拝命。以降、長く明治天皇に勤仕することになります。

隠居~最期

 明治16年(1883)には長女・昭子が誕生するも、正妻の盛子は体調を崩し夭逝してしまいます。

 同年、甥の徳川篤敬に家督を譲って隠居した昭武は、戸定邸(現・千葉県松戸市松戸字戸定)へ生母の睦子(号・秋庭)を伴って移転。のちに茨城県多賀郡大能村や久慈郡の天竜院に牧場を開設し、植林事業なども興しました。一方、昭武次男の武定は明治25年(1892)に子爵へと叙され、松戸徳川家の祖となりました。

 隠居後の昭武は写真や狩猟など様々な趣味を楽しみ、静岡にいる兄・慶喜との交流が知られています。明治43年(1910)に従一位に叙任され、勲一等瑞宝章を受章。同年7月3日、小梅邸で57年の生涯を閉じました。その魂は、茨城県常陸太田市の瑞竜山に眠っています。

おわりに

 最後の将軍としてあまりにも有名な徳川慶喜ですが、その弟である昭武も最後の水戸藩主として数奇な人生を歩みました。

 ごく幼少の頃から幕府と朝廷の中枢に関わる定めを負った昭武でしたが、パリ派遣という形で国内最大の戦火を免れたといえるでしょう。そこには、次世代の人材として嘱望された昭武への、兄・慶喜の願いが込められていたように思えてなりませんね。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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