「岩倉具視」幼少期のあだ名は「岩吉」?近代日本の礎を築いた、エネルギッシュな公家!

 日本史上、長く政権運営の中心を担ってきたのは武士たちでした。その政府を幕府と呼ぶのは周知の通りですが、厳密にはもう一つ、途切れることなく存続してきた政府がありました。それが朝廷です。いわずと知れた天皇を中心とした公家の政権を指しており、貴族による政府と言い換えることもできるでしょう。

 公家たちは武家が政権を握ってから、数百年にわたって脈々とその伝統を受け継ぎながらも貧窮する者が跡を絶ちませんでした。しかし幕末において武家が政権を朝廷に返上し、近代の到来を告げたことはよく知られており、その運動では武士に劣らずパワフルな公家たちが活躍しました。その筆頭格として岩倉具視(いわくら ともみ)の名が挙げられるでしょう。

 武士に比べてその事績や実態が分かりにくいイメージのある公家ですが、今回は維新の立役者の一人である岩倉具視の生涯にフォーカスしてみることにしましょう!

出生 ~ 岩倉家婿入りの時代

 岩倉具視は文政8年(1825)9月15日、前権中納言(さきのごんちゅうなごん)・堀河康親と勧修寺経逸の娘・淑子の第二子として京都・堀河邸に生を受けました。幼名は周丸(かねまる)、郷ははじめ華竜を用い、のちに対岳を名乗りました。

 公家というとどちらかといえば文弱の徒というイメージもありますが、残された肖像写真からも分かるように具視は屈強な容姿の子供でした。言動もおよそ公家らしくなかったともいわれ、同年代の公家の子女らからは「岩吉」などのあだ名で呼ばれたといいます。

 具視は幼少から明経博士・伏原宣明に師事して学問を修めました。宣明は朝廷に儒学で仕える学者の家柄で、幼き日の明治天皇にも教えを授けた人物として知られています。

 宣明は具視の才器を見抜き、公卿の岩倉具慶(ともやす)家への養子縁組を推薦しました。天保9年(1838)8月8日に具慶の次女・誠子と結婚して岩倉家に婿入りを果たし、師である宣明によって「具視」の名を授けられました。

政治参画~八十八卿列参事件

 岩倉家は江戸時代初期に興された比較的新しい家であり、公家としても決して上位ではなかったため経済的にも政治的にも大きな力は持っていませんでした。

 具視に転機が訪れるのは嘉永6年(1853)。関白・鷹司政通に入門し歌道を学んだことによります。

 具視は政通を通じて人材育成などの朝廷改革案を提出。師の縁によって安政元年(1854)に孝明天皇の侍従に就任。さらに安政4年(1857)には天皇近習となり、具体的に政治へと参画するチャンスを掴むことになりました。

孝明天皇の肖像
明治天皇の父で知られる孝明天皇。彼の最期には毒殺説が存在し、岩倉が容疑者として疑われている。

八十八卿列参事件

 具視にとって初めての政治運動はこの翌安政5年(1858)、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を求めて上京した時のことでした。

 時の関白・九条尚忠はこれに勅許を与えることに賛成する立場でしたが、具視ら88名の反対派公家が大挙して参内。この抗議行動によって尚忠は参内を辞退し、結果として条約への勅許は与えられませんでした。この運動によって、具視の政治家としての存在感は急速に高まったといえるでしょう。

安政の大獄 ~ 王政復古

 安政5年(1858)、大老・井伊直弼は勅許なしで日米修好通商条約の締結を断行。孝明天皇の怒りを買うものの、他の諸外国とも次々に条約を結んでいきました。

井伊直弼の肖像画(井伊直安 作、豪徳寺 所蔵)
開国派として、日本の開国・近代化を断行した大老・井伊直弼。

 この後、直弼は一橋派や攘夷派などの反抗分子を粛清(安政の大獄)しました。この動きが朝廷内にまで及ぶことを危惧した具視は幕府要職者らに接近。特に京都所司代・酒井忠義とは昵懇となり幕府とのパイプ構築にも成功しています。

 安政7年(1860)に桜田門外の変で井伊直弼が斃れると、幕府内で公武合体論が再興。具視は孝明天皇妹・和宮(かずのみや)を14代将軍・家茂へと降嫁させる工作に関わっています。

14代将軍徳川家茂の御台所・和宮の肖像
孝明天皇の妹で、14代将軍徳川家茂の御台所となった和宮。

 文久元年(1861)、和宮に従って江戸へと下向した具視は、徳川将軍の歴史で初となる家茂自筆の誓詞を得ることに成功し、京へと持ち帰りました。翌年には薩摩の島津久光が上洛し、公武合体運動に合流。具視は薩摩への支持を表明し同藩との結びつきを強めていきます。

失脚、蟄居時代

 しかし、和宮降嫁推進や京都所司代との交誼などから佐幕派とみなされ、攘夷派からの圧力が高まっていきました。そのため文久2年(1862)8月に具視らは官を辞して朝廷を去り、慶応3年(1867)までおよそ5年もの間、洛北の岩倉村で蟄居生活を送ることになります。

 その間にも活発な政治活動を続け、やがて維新を成す諸藩の士との交流が繁くなります。慶応3年(1867)には土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎、薩摩の大久保利通らの訪問を受け、蟄居の身ながら強い影響力を行使しました。

朝廷復帰へ

 同年には明治天皇が即位し、10月14日に大政奉還が実現。具視らは11月に赦免されて朝廷へと復帰を果たしました。12月9日に参内した具視は王政復古の大号令についての案を奏上。新政府樹立に伴う人事問題の議論を経て具視は参与、のちに議定に就任し政治の中核へと参入したのでした。

明治維新 ~ 最期

 明治元年(1868)、鳥羽・伏見の戦いののちには三条実美とともに副総裁、ついで議定兼輔相という役職に就いて行政全般と宮中庶務を統括する立場となります。しかし病を理由に輔相の職は翌年1月に辞しています。

 明治3年(1870)、具視は近代国家へと日本を再編するための「建国策」を起草。古代律令制にならいながらも現代の省庁につながるシステムを提案し、学校教育・民政・財政・防衛などの政府による一元管理の基礎を構想しました。

 明治4年(1871)7月14日に廃藩置県が行われ、具視は同日付で外務卿に就任。同月には現代でいうところの総理大臣に相当する太政大臣に三条実美が就任し、具視は右大臣の職にも就きました。

 当時においては旧幕時代に日米修好通商条約を筆頭として、欧米諸国と結んだ不平等条約の改正が大きな課題となっていました。

 アメリカとの改正交渉は翌明治5年(1872)7月1日まではできないことが定められていましたが、以降に条約の不平等性を解消する目処は立っていませんでした。そこで具視自らが全権大使として欧米諸国を巡り、日本が完全な近代化を果たしたのちに対等な条約として改正することの交渉を試みました。

 これがいわゆる「岩倉使節団」です。

1872年サンフランシスコ到着直後の岩倉使節団の面々
岩倉使節団。1872年サンフランシスコ到着直後の岩倉使節団の面々。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉、伊藤博文、大久保利通。

 結果として交渉はうまくいかなかったものの、約1年10か月におよぶ欧米諸国視察によって具視をはじめとする政府要職は、近代国家への具体的なイメージを得て明治6年(1873)9月13日に横浜へと帰着しました。

 前月には世にいう征韓論(= 明治初期の朝鮮侵略論のこと。)で西郷隆盛の派遣が閣議決定されるも、使節団の帰国を待つという天皇の判断により保留。帰国後の具視は閣議決定を退け、このことから西郷隆盛は下野し、三条実美も病で倒れたため具視が太政大臣代理に就きます。

征韓議論図(鈴木年基 作)
征韓議論図。中央左に岩倉具視、中央右に西郷隆盛。論争は岩倉派が勝利し、敗れた西郷・江藤らによる士族反乱に繋がった。

 明治7年(1874)1月14日、具視は征韓論支持派の不平士族に襲撃されて負傷しますが、命に別状はありませんでした。これより3年後、西郷隆盛を首魁とした不平士族らが挙兵し、西南戦争が勃発するのは周知の通りです。

 明治8年(1875)4月14日、明治天皇より立憲政体の詔書が出されますが、具視自身は国体を一変させることへの懸念から保守的な態度を貫いていました。しかし明治13年(1880)頃から自由民権運動が勃興してくるとその対応に苦慮し、憲法制定へと方針転換を余儀なくされていきます。

 制定にあたっては大隈重信の目指すイギリスにならった議院内閣制と、井上毅によるプロシアにならった君主大権を保持する欽定憲法構想が対立。具視は後者を採用して大隈重信を解任し、明治15年(1882)に参議・伊藤博文を憲法調査のためヨーロッパへと派遣しました。

 具視はその後も宮内省の国史編纂や華族救済のための事業設立などに尽力しますが、明治16年(1883)7月20日に癌により満57歳の生涯を閉じました。

 日本初の国葬が執行され、その魂は東京都品川区の海晏寺に眠っています。贈太政大臣、のちに正一位が追贈されています。

おわりに

 幼少時の「岩吉」のあだ名通り、パワフルに幕末から近代を駆け抜けた岩倉具視。その事績からは公家という枠組みを越えて国事に奔走した、一人の志士の姿が浮かび上がります。

 現代日本へと連なる礎をつくった人物の一員として、まさしく歴史に名を残したといえるでしょう。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
  • 岩倉具視幽棲旧宅HP 岩倉具視の歴史・年表

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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