「藤田小四郎」 尊王攘夷の大義を掲げた青年は略奪者!? 水戸天狗党の実質的指導者。

幕末の日本は、尊王攘夷の思想によって揺れ動きました。風雲急を告げる時勢の中、尊王攘夷を体現すべく戦った人物がいます。藤田東湖の四男・藤田小四郎です。

小四郎は東湖の薫陶を得て育ち、文武両道に長けた青年に成長し、やがて藩内の尊王攘夷派を統率する立場に。しかし攘夷の時代は過ぎ去ろうとしていました。彼は幕府と天下に攘夷を訴えるべく、天狗党を率いて挙兵。京を目指して西へと進んでいきます。しかし思いがけない最後が待っていました。

小四郎は何を目指して生き、何と戦ったのでしょうか。藤田小四郎の生涯を見ていきましょう。


東湖の後継者として


2歳にして母と生き別れる


天保13(1842)年、藤田小四郎は水戸藩主・徳川斉昭の側用人・藤田東湖の四男として生を受けました。母は妾の土岐さきです。名は信(まこと)、字は子立(しりゅう)、雅号を東海と名乗っています。


東湖は尊王攘夷を説く水戸学の大家でした。いわば全国の志士たちに思想的影響を与える存在です。斉昭の補佐役として、藩政にも大きな影響力を持っていました。西郷吉之助(隆盛)や橋本左内などの要人とも交流を結んでおり、諸藩においても知られた存在でした。


しかし父・東湖の声望とは裏腹に、小四郎は少し寂しい幼少期を過ごしたようです。

二歳の時に母のさきが藤田家から追放されました。さきが東照宮の例祭で正妻・里子と同じ帯を仕立てて出席したことが原因とされています。世間から批判されたため、里子が暇を出した形でした。

当時は藩内において、東湖ら天狗党(尊王攘夷派)が諸生党(佐幕派)と対立。東湖の評判を貶められる恐れがありました。


才気煥発な少年


母を失った小四郎でしたが、決して萎縮してはいません。以降、成長するに従って周囲に才気を見せるようになります。

少年時代のある日、東湖の部屋で何人かが酒を飲んでいた時のことです。東湖が手を叩くと、里子が「何か御用でござりますか」と出てきます。

廊下で遊んでいた小四郎は「お手が鳴ったら銚子とさとれ」と唄い出しと伝わります。東湖は腹を立て、鞭を取って追いかけ回したそうです。


才気煥発な小四郎でしたが、同時に東湖の薫陶を得て成長。勉学に励み、自身の才能を磨くことに専念していきました。学問だけでなく、武術にも精励。剣術から弓道、さらに槍にも通じるという多彩ぶりだったと伝わります。

小四郎は正室の子である兄二人(長男は早世)を凌ぐほどの器量を見せ、活発に行動していきます。やがて父・東湖と同じく尊王攘夷の思想を掲げて行動していきました。


尊王攘夷派として活動を始める


安政江戸地震で父を失う

小四郎の転機となったのは、江戸での暮らしです。

安政2(1855)年、滞在中の江戸で安政江戸地震が勃発。小四郎は江戸の水戸藩邸で被災します。父・東湖は自身の母を救うべく屋敷の下敷きとなって圧死。父も失ってしまいました。


小四郎は失意に沈む間さえ惜しみます。国許の藩校・弘道館に入門。館長・原市之進に師事して、より深く学んでいきました。東湖が果たせなかった尊王攘夷の思想は、小四郎の中で脈々と息づいていたのです。


安政5(1858)年には、朝廷から水戸藩へ戊午の密勅が降下。攘夷実行を求められています。

開国政策を推進する幕府大老・井伊直弼は水戸藩を弾圧。安政の大獄によって、斉昭や徳川慶喜らを政治から追放していきます。

安政7(1860)年3月、水戸浪士らは江戸城桜田門外において井伊の行列を襲撃して暗殺。幕府の権威を大きく失墜させています。まだ若い小四郎には衝撃的な時代でした。より強く尊王攘夷の実行を胸に誓い、政治に関わるようになっていきます。


京都で桂小五郎らと出会い、尊王攘夷派の仲間入りを果たす


小四郎の運命を決定づけたのは、京都での出会いでした。

文久3(1863)年3月、将軍後見職となった慶喜は上洛。兄の水戸藩主・徳川慶篤も藩士を率いて京に上ります。まだ二十一歳だった小四郎も列の中に加わっていました。


当時の京都では、尊王攘夷派が政権を握っています。朝廷は三条実美ら急進派の公卿たちが掌握。背後には御所の警備を担っていた尊王攘夷派・長州藩の存在がありました。


小四郎は長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞らと交流。尊攘派公家とも関わる機会を得ています。東湖の息子ということで、桂は小四郎に一目置いたようです。

以降、小四郎は水戸天狗党(尊王攘夷派)の首領として存在を認知されるようになりました。


同年5月、小四郎は徳川慶喜に従って江戸に帰還します。


当時の幕府は、朝廷と攘夷の実行を約束。しかし幕府には実行する様子はありません。やがて尊王攘夷派の退潮も目立ち始めます。


8月、会津藩と薩摩藩が同盟を締結。御所から長州藩と急進派の公卿を追放に及びました。ほどなく、諸侯による参預会議が開催。議題の中で横浜の鎖港についても話し合われています。


孝明天皇は横浜の鎖港を求めていました。慶喜も薩摩への対抗から、鎖港を主張します。しかし鎖港の実現は見通しが立ちませんでした。


渋沢栄一との出会いと天狗党


渋沢栄一との出会い

藤田小四郎と知遇を得たのが、渋沢栄一です。渋沢は後に「日本経済の父」と称されるほどの実業家となる人物でした。


元治元(1864)年ごろ、小四郎と渋沢は江戸の水戸屋敷近くの鰻屋で面会を果たしています。渋沢も藤田東湖の水戸学に強い影響を受け、かつては尊王攘夷運動に身を投じた過去がありました。


同席した場所で渋沢は水戸藩の行動を批判。幕府の当事者にみに反抗して、幕府を攻撃しないことを手ぬるいと糾弾します。さらに、水戸の藩内における派閥争いについても厳しい口調で責めたてました。


しかし小四郎は極めて冷静に答えます。渋沢の批判を言い終えぬうちに察知し、一つ一つの事柄を詳細に説明して見せたといいます。渋沢は小四郎を「一を聞いて十を知る」と舌を巻き、一橋家の用人・平岡円四郎と並べて称賛しています。


筑波山の義挙から略奪者の軍勢へ

小四郎は幕府による攘夷を求めて、より過激な行動に出ます。

元治元(1864)年3月、小四郎は筑波山において挙兵。天狗党の同志・60名ほどが集結しました。まだ二十三歳と若輩であったため、天狗党の首領には水戸町奉行・田丸稲右衛門を配置。小四郎は副将として指揮に関わります。


天狗党の挙兵は、関東を中心に多くの尊王攘夷派を糾合。浪士や農民らを加えて一千五百を超える軍勢にまで膨れ上がりました。しかし人数の膨張は、軍資金の不足という新たな問題を生みます。


天狗党は通過した宿場で町人から金品の強奪を開始。逆らう者は殺害し、宿場に放火するという行動に出ます。乱暴狼藉を繰り返す彼らは、もはや略奪者の集団と化していました。


賊将として最期を迎える


水戸諸生党との戦い


水戸藩の諸生党(佐幕派)は、天狗党の討伐に向けた運動を行います。小四郎らは水戸城下で諸生党に敗北。さらに鹿島付近において幕府軍の追討を受けて敗れます。


諸藩の追討は激しさを増していきました。最大の激戦地・那珂湊では、民家や寺など大半が火に包まれるほどの大惨事に発展。那珂湊の戦いによって、反射炉が破壊されています。

那珂湊反射炉は、かつて小四郎の父・藤田東湖が建設を推進した近代化政策の一つでした。小四郎の起こした戦いによって、東湖の業績が無に帰されたのです。


壊滅に瀕する状況で、小四郎は天狗党の目的を徳川慶喜に訴える道を模索していました。

小四郎は説得に訪れた武田耕雲斎を説得。天狗党の首領に担ぎ上げることに成功すると、その耕雲斎の下、天狗党は軍紀を定めて行軍。諸藩の追撃を受けつつ中山道を西に向かいます。

しかし慶喜は天狗党の意見を聞き入れるつもりはありませんでした。すでに討伐の準備を始めていたのです。

野捨の罪人から従四位へ


12月、小四郎ら天狗党800余名は、越前国新保で加賀藩に降伏。身柄は同藩に預けられることとなりました。加賀藩は小四郎らを手厚く保護しています。

しかし幕府軍に身柄引渡しがお今割れると状況は一変。天狗党員らはニシン倉に閉じ込められて、厳重に監禁されることになりました。

魚の腐敗臭と用便用の桶が置かれた倉は、最悪の衛生状況です。たちまち20名以上が病に倒れて亡くなりました。


元治2(1865)年2月、小四郎たちは敦賀の来迎寺に引き出されます。境内の一角には、刑場が用意されていました。もとは町人を処刑する場所だったようです。

小四郎は武田耕雲斎らとともに境内で斬首されました。享年二十四。墓は来迎寺と水戸の常盤共有墓地にあります。


辞世の句は

「兼ねて与梨 思ひ初にし真心を けふ大君に 徒希で嬉しき(かねてより おもいそめにしまごころを きょうたいくんに つげてうれしき)」


と残ります。


処刑後、小四郎の首は塩漬けにされて護送。水戸城下と那珂湊において晒されました。さらに野捨(遺骸が打ち捨てられる処分)となっています。


明治24(1891)年、維新における小四郎の功績が認められ、従四位を追贈されています。



【参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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