「渋沢平九郎」渋沢栄一の義弟にして養子。『青天を衝け』にも登場したイケメン武士!

幕末のイケメン武士として話題になった侍がいます。
渋沢栄一の義弟・渋沢平九郎です。

平九郎は名主の家系に生まれながら剣術を修行。義兄の栄一に見込まれて養子となりました。
大政奉還となると、平九郎は彰義隊に参加。従兄の成一郎らとともに新政府軍に対抗していきます。

平九郎はどのような環境で自らを育んだのか。何を目指して生きたのか。渋沢平九郎の生涯を見ていきましょう。


渋沢栄一との出会い

下手計村で生まれる

弘化4(1847)年、渋沢平九郎は武蔵国榛沢郡下手計村で、名主・尾高勝五郎の末子として生を受けました。母はやへです。諱を昌忠と名乗りました。


尾高家は岡部藩主・安部家のもとで下手計村の名主を務める一方、名字帯刀を許された家柄でした。
名主と同時に尾高家では多角的な商売を展開しています。
食料品では米穀から塩、菜種油までを販売。藍玉の製造販売や養蚕、農業まで幅広く商っていました。


平九郎の長兄・惇忠は優れた学識で知られ、自宅に私塾を設置。近在の若者に学問を享受していました。
渋沢栄一も惇忠の教え子の一人だったのです。



平九郎は比較的恵まれた環境にありました。学問は惇忠について素養を身につけます。一方で剣術は十歳から神道無念流を修行。十九歳にして人に教えるほどの腕前となりました。


川越藩の剣術師範・大川平兵衛の息子・修三は、平九郎の長姉・みちの夫です。惇忠や栄一も平兵衛に剣術を教わりました。
平九郎は優れた人物と関わって自身を磨いていたようです。


平九郎の振る舞いは美しく、長身で色白、腕力も強かったと伝わっています。


安政5(1858)年、姉・千代が渋沢栄一に嫁ぎます。婚姻によって、平九郎は栄一と義兄弟となりました。


栄一らと尊王攘夷運動に参加する

やがて平九郎のもとにも、時代の荒波が押し寄せてきます。
黒船来航によって幕府の権威は大きく失墜。全国の志士たちの間で尊王攘夷運動が巻き起こっていました。
武蔵国榛沢郡榛沢郡にも尊王攘夷運動は影響を与えます。


文久3(1863)年、長兄・惇忠と従兄の渋沢喜作(後の成一郎)、栄一らは尊王攘夷運動に共鳴。幕府転覆の計画を練り始めます。


計画は高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き討ちするという過激なものでした。
平九郎も身内としてこれに参加する予定でしたが、帰郷した次兄・長七郎が、時勢が不利だと必死に説得。結局計画は未遂という形で頓挫します。


頓挫後、栄一と喜作は領内を出奔。親族に累が及ばぬようにと勘当された形をとっていました。
二人は江戸から京都へ逃亡。後に平岡円四郎のつてで一橋徳川家に奉公することがかなっています。


しかし尾高家は、幕府から目をつけられていました。
元治元(1864)年、惇忠が捕縛されてしまいます。水戸天狗党との関係を疑われてのものでした。


家宅にも捜索の手が入り、平九郎も身柄を一晩拘留されています。罪は手鎖(てじょう)、公事宿への宿預けというものでした。
程なく惇忠も釈放されています。



幕臣の後継者としての覚悟

国事周旋への覚悟を認める

平九郎の運命を変えたのが、渋沢栄一と成一郎です。

慶応2(1866)年、徳川慶喜が将軍宣言を受けて征夷大将軍に就任。栄一と成一郎は幕臣に取り立てられています。

慶応3(1867)年には、清水徳川家当主・徳川昭武(慶喜の弟)が慶喜の名代としてフランスに渡航。パリ万博へ出席します。


栄一も随行し、妻・千代に手紙を当てています。内容は義弟である平九郎を養子としたい、というものでした。書状を受けて、平九郎は姉夫婦の見立養子となります。


同年10月からは、江戸での生活を始めます。しかし10月14日、徳川慶喜は朝廷に大政奉還を断行。政治体制が変わろうとしていました。平九郎は不安に感じていたようです。一時、下手計村に戻って惇忠に相談しています。


平九郎の心配をよそに、12月には王政復古の大号令が発布。征夷大将軍と幕府は消滅することとなりました。


年が明けた慶応4(1868)年1月、薩長の新政府軍と旧幕府軍は開戦。鳥羽伏見の戦いが勃発します。戊辰戦争の幕開けでした。


平九郎は当時の状況について、フランスの栄一に手紙を書いています。


手紙の文面では、日本の状況を報告。徳川家に危険が迫っていることを訴えています。さらに徳川昭武の帰国の必要性を強く述べました。平九郎は栄一に国事周旋への覚悟を力説。同時に苦境に対する自身の心境を吐露しています。


混迷と不安が入り混じる世の中で、平九郎が苦闘する様子が浮かびます。


成一郎の彰義隊に入隊する

慶応4(1868)年2月、慶喜は江戸城を退去。上野の寛永寺に蟄居して新政府に恭順の意を示します。


しかし成一郎らは、慶喜の復権を目論んでいました。同月には成一郎が頭取となった彰義隊が結成。平九郎も計画段階から関わっており、大ニ青隊伍長に任命されています。


彰義隊は慶喜の警護を目的として結成された部隊でした。
隊名は「大義を彰かにする」意味があります。すなわち慶喜の汚名をそそぐ意味が込められていました。


旧幕臣や諸藩の藩士や志士を糾合。最盛期には3000人から4000人を超える大部隊にまで膨れ上がります。
任務は慶喜警護の他に江戸市中の治安維持業務を担当していました。


4月に江戸城が無血開城となると、慶喜は水戸へ移動。平九郎は水戸まで様子を見に赴きました。


旧幕府軍として戦う

振武軍の右軍頭取に就任する

ほどなくして、彰義隊でも内部争いが表面化。副頭取の天野八郎は薩長への抗戦を主張。対して成一郎は、江戸の町を戦火に包んではならないと退けます。


天野と成一郎は激しく対立することとなりました。平九郎も成一郎の一派と見なされ、自宅が天野派の兵達に包囲される事態に発展しています。

仲間割れを恐れた成一郎は、彰義隊の脱退を表明。新たに振武軍を結成して、箱根ヶ崎を本営と定めています。
振武軍には、彰義隊から分離した隊士たちが集結。1500人の兵を抱える大部隊となりました。


平九郎も惇忠と共に振武軍に入隊。自らは右軍の頭取に就任して一隊を指揮する立場となりました。
旧幕軍の一員として、あくまで抗戦するという平九郎の覚悟がうかがえます。


平九郎は各地に赴き、情報収集に従事。やがて江戸で彰義隊と新政府軍の間で上野戦争が勃発したことを掴みます。


平九郎は成一郎に報告。振武軍は彰義隊の援軍として江戸に向かうことを選択します。
しかし途中で彰義隊は敗北。振武軍は彰義隊残党と合流して箱根ヶ崎に撤退しました。


振武軍の壊滅

新政府軍は川越城を出発。振武軍殲滅のために動き始めます。
平九郎らの振武軍は武蔵国南西部の飯能に移動。能仁寺を本営に定めています。


5月23日の明け方、新政府軍は飯能まで追撃。昼前には振武軍は壊滅状態となりました。
本営となった能仁寺は焼失。市街地の面積のおよそ半分が火で焼けたと伝わっています。


混乱の中で平九郎は成一郎や惇忠と逸れ、飯能と越生の境である顔振峠に辿り着きました。
峠の茶屋の女主人は、平九郎を旧幕軍だと見抜き、秩父への抜け道を教えます。秩父には新政府軍の目が届かないとされています。


平九郎は百姓に扮装するため、女主人に大刀を預けます。
しかし秩父へ向かう道は選ばずに、何かを考え、越生の方向へ向かいます。


平九郎には秩父に向かう道を選べなかった理由があったのでしょうか。
一説によると、平九郎は女を匿っていたとも伝わっています。女を逃すためにあえて別の道を選んだ、という説です。


真相はわかりません。しかし平九郎の人柄が偲ばれる話です。


新政府軍相手に単身で奮戦する

平九郎が黒山村に入りました。午後4時ごろ、新政府軍に所属する広島藩神機隊の監察・藤田高之隊の斥候3人と遭遇します。


平九郎は所持していた小刀で応戦。一人の腕を切り落とし、もう一人にも負傷させます。自身も右肩を斬られ、足に被弾しました。
斥候隊の一人は、平九郎の気迫に恐れをなして一旦は逃亡しますが、やがて仲間を呼んで戻ってきます。


しかしそこに平九郎の姿はありませんでした。平九郎は川岸の岩に座り、覚悟の自刃を遂げていたのです。


享年二十二。戒名は真空大道即了居士。


無惨にも平九郎の首は刎ねられ、今市の高札場に晒されました。
黒山村の人々は、晒し首の有様を見て憐んだと伝わります。


村民は勇猛果敢に戦った平九郎を「脱走の勇士様(だっそさま)」と賞賛。平九郎の骸を全洞院に埋葬しています。位牌には「俗名知らず、江戸のお方にて候、黒山にて討死」と書かれていました。


討ち死にから十数年後、ようやく平九郎の身元が判明しています。
明治6(1873)年ごろ、帰国していた渋沢栄一によって境内に墓が建てられました。


平九郎が茶店の女主人に預けた大刀も栄一のもとに戻っています。



【主な参考文献】
  • 渋沢栄一『雨夜譚ー渋沢栄一寺田ー』 岩波書店 1984年
  • 「渋沢平九郎昌忠伝」『渋沢栄一伝記資料』1 竜門社 1944年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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