戦国時代の文通事情は?現代にはない慣習や雑学を大公開!

桜ぴょん吉
 2021/07/13

右筆のイラスト

電話もメールもSNSもない戦国時代、コミュニケーション手段として重要な役割を果たしていたのが手紙でした。戦国武将たちは、たとえば籠城する敵を説得したり、素晴らしい働きをした部下を褒めたり、お世話になっている人に付け届けをしたりなど、様々な場面で手紙を書いてきました。それらの一部は現代にも伝わり、戦国時代を知るための貴重な史料となっています。

今回は、そんな戦国時代の手紙に焦点をあてて、武将が手紙を書いてから相手方に届くまでの、当時の慣習や面白い雑学をまとめてみました。これであなたも今日から手紙マスターになれるかも!?

そもそも、自分で手紙を書いていた?

戦国時代の代筆屋・祐筆(右筆)

まず、戦国武将が自ら手紙の本文を書くことはめったにありません。たいていは、「祐筆(ゆうひつ、右筆とも書く)」という書類作成担当の文官が、武将の指示をうけて手紙を書いていました。

背景には様々な要因がありますが、現代と比べて「手紙を書くこと」自体のハードルが高かったことは事実です。乱世では、読み書きを学ぶことができるのはごく一部でした。戦国武将でも読み書きが完璧でない人がいたほどです。

加えて、相手方を怒らせると合戦になる可能性もあるので、手紙の作法やマナー、適切な言葉遣いなどを臨機応変に選択する必要もありました。戦国武将は外交リスクを減らし、手間を軽減するため、文書作成の訓練を受けた専門職(=祐筆)を置くことが多かったようです。

有名な祐筆としては、織田信長の祐筆で『信長公記』の著者である太田牛一、羽柴秀吉の祐筆で後に五奉行の一人になる長束正家(なつかまさいえ)などがいます。

自筆の部分はサインだけ!

祐筆は代筆係もかねていました。武将から指示された内容を、適切な言葉を使い清書するまでが彼らの任務です。その後武将の最終チェックをうけて、手紙の発送となりました。

内容を確認した証として、戦国武将は手紙に自筆でサインをしました。それが「花押(かおう)」です。

豊臣秀吉の花押
豊臣秀吉の花押

花押は図案化された署名で、大抵の場合、手紙末尾に書かれた差出人名の下に書きます。花押だけは慣例的に本人が書くものとされ、デザインは一度決めたら数年は変わらず、変えるときは相手方に変更通知を送ることもありました。

もちろん、全て自筆で書いている手紙も数少ないながら存在します。

たとえば、毛利元就が息子三人に結束の重要性を説いた、「三本の矢」の原型とされる手紙は元就直筆と伝わっています。また、羽柴秀吉のことを「禿ねずみ」と書いた織田信長の手紙も直筆ではないかと言われています。

大阪の陣の際、国許に手紙を書いていた真田幸村のイラスト
真田幸村も大阪冬の陣の直後、姉宛てに直筆の手紙を出していた。

コラム:花押と印判状

花押のかわりに印判を押した書状も多く見られます。

織田信長の「天下布武」印、後北条家の虎印、キリシタン大名の洗礼名をあしらった印などは、どこかで目にしたことがあるかもしれません。印判は花押のかわりとして、主に行政文書によく使われました。

天下布武の印章
天下布武の印章(出典:wikipedia

現代日本では手書きのサインより印鑑のほうが格上のような位置づけですが、戦国時代は逆に、誰でも押せる印判は花押より格下の扱いでした。その差は当時の手紙からもうかがえます。

たとえば武田勝頼は「いま手を怪我して花押が書けないので印判で失礼します」という手紙を残していますし、家臣の力が強い毛利や島津は、家臣を丁重に扱いたいので印判より花押を使いがちだ、という説もあります。

戦国武将が現代日本のハンコ文化を見たら、当時との差にびっくりするかもしれません。

戦国の手紙マナーいろは

紙は貴重品!使い方にも扱いの差がある

戦国時代、紙は高価な品物でした。どれくらい高いかというと、現在の10倍以上でした。

室町時代初期の物価一覧表『諸芸方代物附(しょげいかただいもつづけ)』をもとに計算すると、一般的な手紙に用いられた杉原紙は1枚約70~160円(1文=100円で換算)。

模様が入った紙は現代換算で2000円を超えることもありました。そのため、手紙の用紙をどれだけ贅沢に使うかが、相手によって露骨に変化しました。

手紙を書くとき、紙は横長で使います。通常は手紙の本文を書く「本紙」1枚と、儀礼として添える「裏紙(礼紙)」の2枚組で出します。丁重な扱いをしたい相手に対しては、裏紙を2枚以上つけることもありました。

逆に身分がかなり下の相手に出す場合は、本紙を上下半分に折り、一枚で本紙と裏紙を兼ねた「折紙(おりがみ)」という書式で出すこともありました。

戦国時代の手紙の書式

ユニークな封の方法あれこれ

手紙を書き終えたら、便箋を、1枚目の末尾が内側になるようにクルクルと巻きます。巻き終わったら、上半分を結んで結び目に封印を書いたりしました。

戦国時代の手紙の書式

他にも、便箋の右端を下から途中まで切り、それを紐にして全体を結わえ、結び目の上に封印を書くという、切封(きりふう)と呼ばれるの封の方法もありました。

戦国時代の手紙の書式

いずれの方法も、第三者が読もうとすると印がずれて、開封したことが分かるようになっていました。

現在では手紙は封筒に入れて、封筒の口を糊付けすることが多いですが、戦国時代はこのように便箋に直接封をして別紙で包んでいたのです。

さらに便箋は別の紙(上包)で包んで届けられました。

現代でも式典で使う祝辞用紙や目録用紙にその名残がありますが、戦国時代もそれと同様に、三つ折りで、上下を折った様式のものが一般的でした。

戦国時代の手紙の書式

包み終わったら、表に宛名と差出人名を書いて、発送準備は完了です。

戦国はメッセンジャーも大変

もちろん人力で届ける

手紙を届けるのも、戦国時代では郵便局に頼むわけにはいきません。家臣や知人の中から適切な人を選び、手紙と土産物、旅費を託して送り出しました。

近所ならたいしたことはないのですが、遠く離れた場所に行くのは大変。たとえば薩摩島津家から京都に手紙を出す場合、船旅で片道2か月程度かかっています。往復だと早くても4か月、すこしゆっくり滞在していると半年ほどかかってしまう計算です。

ですので、たとえば遠方の武将からの年賀が3月に届いたとか、お歳暮が翌年に届いた、ということは頻繁に発生していました。そのようなときも、正月に間に合わせようと無理に使者を早く出すのではなく、お互い「遠いし仕方がないよね」でユルく付き合っていました。

「詳しいことは使者に聞け」という重責

さらに、使者はただ届けるだけが任務ではありませんでした。当時の手紙には「委細何某申述候」などという文言が入っていることがあります。

つまりは「詳しくは何某に聞いてください」という文言で、使者は手紙を届けるのみならず、長旅の果てにプレゼンをしなければならない使命までも背負っていたのです。

受け取るほうも…おもてなし必須

手紙を運ぶ使者のみならず、受け取る方も手間がかかりました。手紙は差出人の家臣や知人が持ってくるため、受取人側は使者のおもてなしが必須。たとえ敵方の使者であっても、返事を渡すまでは、大人の対応として酒や食事を提供するのは当然でした。

遠隔地から来た場合は数日泊めてあげていましたし、近所に使者の知人がいれば家に招待して宴会をするなど、かなり気を遣っていました。

京都周辺の戦国武将だと、使者にホテルがわりにされることも。遠方の使者はたいてい複数の任務を帯びてやってきて、「将軍に会いたいからあと数日泊めてくれ」とか「伊勢神宮に参詣を頼まれているから帰りにまた寄っていいか」とか言って数か月ズルズル滞在することもありました。それでも、遠方の情報をくれる存在として、嫌な顔せずに使者をもてなしていたようです。

コラム:貰った手紙の行く末

現代でもエコの一環として裏紙を使うことがあるように、紙が今よりずっと貴重だった戦国時代でも裏紙の活用はひろく行われていました。ある時は日記として、ある時はメモの一部として、貰った手紙の裏を活用することがよくありました。

裏紙として残った手紙は、時に表側の文書の研究に役立つことがあります。2017年、龍造寺家文書から現存最古の刀剣書が見つかりました。年代推定の鍵となったのが、刀剣書の裏紙たちです。不用品扱いされた裏紙たちのおかげで分かった歴史的事実も多く、その点では裏紙たちも本望かもしれません。

まとめ

今回は、戦国武将たちがどのように手紙を書いて相手に送っていたか、当時の様子に即してご紹介しました。現代の手紙と全く違う慣習がある一方で、現在と似ている箇所もいくつかあったのではないでしょうか。

現代はリアルタイムで交流ができ、手紙を書くこと自体めったになくなっていますが、時には戦国武将に思いをはせて、手紙を書いてみるのもよいかもしれません。


【主な参考文献】
  • 小和田哲男『戦国武将の手紙を読む』(中公新書、2010年)
  • 小島道裕『中世の古文書入門』(河出書房新社、2016年)
  • 齋藤慎一『中世を道から読む』(講談社現代新書、2010年)
  • 佐藤進一『古文書学入門』(法政大学出版局、2003年)
  • 山室恭子『中世のなかに生まれた近世』(吉川弘文館、1991年)
  • 桜井英治「中世における物価の特性と消費者行動」(『国立歴史民俗博物館研究報告』113、2004年)
  • 吉原弘道「「銘尽(龍造寺本)」から見える中世刀剣書の成立とその受容 : 申状土代の裏に書写された現存最古の刀剣書」(『古文書研究』84、2017年)
  • 毛利博物館Webページ 収蔵品一覧

  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武 ...


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