戦国大名の贈り物事情は?お中元、お歳暮などの種類とその作法について

現代では多少下火になったものの、冠婚葬祭や中元歳暮などの贈り物はいまだに人間関係を保つ手段として残っています。戦国時代は、現代のように電話やメールもなかったので、贈り物はいっそう重要な位置づけにありました。

贈り物といっても、心のこもったものだけではありません。企業どうしの贈り物をイメージしていただければわかるように、単なる形式的なものや関係維持のため、あるいは大口契約の打算のためといった、ドライな贈り物も多数あります。弱肉強食の戦国時代、大名たちがやりとりしていた贈り物の大半もまたそのようなものでした。

本記事では、そんな戦国大名たちの贈り物事情をご紹介します。

戦国時代の贈答タイミング

年末年始とお中元

室町・戦国時代における三大贈り物シーズンは、年末年始とお中元です。正月に贈り物をし、夏に贈り物をし、年末にまた贈り物をする、というのが一般的なペースでした。

お中元について、現代では厳密に日付が決まっていませんが、室町・戦国時代のお中元は毎年8月1日の「八朔(はっさく)」の日を基準にやりとりしていました。

室町幕府が機能していた頃はお盆や節句などでも品物の授受をしていたのですが、戦国大名どうしは地理的に離れているので、だいたい上記3回のことが多いようです。

加えて、道路事情で数日から数か月遅れて品物が届くこともよくありました。その辺は「仕方ないこと」と大人の対応をしていたようです。

通過儀礼

特に男性に対しては、元服・初陣・家督相続・子息誕生・子息元服など、人生の節目に贈り物をしました。頻繁におこらない機会ですが、親しい人の場合は普段より高価な品や由緒ある品を贈ることもありました。

その他社交

他家を訪問する際は、手土産を持参することが求められました。知人が出陣した場合は陣中見舞いを贈ったし、勝ったらお祝い、負けたらお見舞いを贈ることもありました。

はじめて手紙を出す場合や、だいぶ御無沙汰しているときの手紙にも、ちょっとした品を添えることもありました。

戦国時代の鉄板プレゼント

馬と太刀

戦国時代で最も人気な贈り物は馬と太刀です。

たいていセットで贈られますが、遠隔地の場合は馬を連れていけないので、太刀だけのことや、馬が「馬代」として相当額の金子にかえることもあります。刀剣は、打刀や脇指も普及していましたが、儀礼の場面では太刀がベストとされていました。

酒と肴、その他食品

酒と肴も人気の贈り物です。遠方まで贈るのは難しいのですが、大坂・京都間くらいの距離までなら現物を手配して贈っていました。酒は一斗樽2つで1セット、肴は乾物など複数種類を折詰にして贈りました。

他にも、応仁の乱前後の京都では八朔に瓜を贈りあう習慣がありました。また、正月に将軍や天下人が狩りの獲物(鶴など)を天皇に贈る風習もあり、足利義昭や織田信長も正親町天皇に鶴などを献上しています。

紙や布、その他品物

紙や反物も贈答品として好まれました。紙は500枚程度を一束として、束単位で贈ります。反物は麻布・練貫・緞子、また舶来の高級織物や動物の毛皮が人気でした。

特に贈る相手が僧侶の場合、鉄板の「太刀・馬」が出家の身にそぐわないという人もいるので、その代わりに反物や紙にする配慮も見られます。

上記鉄板品の他にも、鎧や手袋、茶道具、季節の果物や菓子、愛玩動物、書籍や絵画、調度品、その他日用品や舶来品などの授受が見られます。

現金

贈る品が準備できなかった場合や遠方の場合は現金を包みます。

当時は現金単体で贈り物になりにくいので、「馬代」など本来の品のかわりであることを明記するか、他の品と一緒に贈るか、のいずれかの方法をとりました。表記は銭建て(「一貫文」など)あるいは銀建て(「百疋」など)が一般的でした。

コラム:贈り物使いまわし事件

贈り物をやりとりする機会が多かった戦国時代、贈り物の使いまわしも半ば公然と行われていました。

天文20年(1551)正月24日、大坂石山本願寺の宗主・証如(しょうにょ)は、京都の細川氏綱から年始の挨拶として折詰10合を受け取りました。しかし、証如によると、そのうち5合は彼が(おそらく正月13日に)京都の三好長慶に贈った品だったのです。

証如は「呵々」と大笑いし、何事もなかったかのように受領しました。

証如は、織田信長と死闘を繰り広げた石山本願寺の顕如(けんにょ)の父として知られる。
証如は、織田信長と死闘を繰り広げた石山本願寺の顕如(けんにょ)の父として知られる。

そんな証如自身もまた、天文5年(1536)8月に尾張の石橋彦三郎から贈られた友縄の太刀を、9月に足利義晴の若君(のちの足利義輝)に贈っています。

現代では「貰い物なんて…」と思いがちですが、戦国時代はドライだったようです。

戦国時代の贈答マナー

送り状必須

戦国時代、贈り物をするときに欠かせないマナーとして「贈り物の内訳が書いてある手紙や目録を一緒に届ける」というものがありました。

遠方の場合は手紙とともに贈り物を届け、本人が出向いて手渡す場合は目録をつけていました。手紙や目録には、たとえば「太刀一腰 馬一疋」のように贈る品目と数量を記しました。

身内や親友、圧倒的に身分が下の相手に贈る場合は送り状なしでも構わないのですが、手紙や目録をつけないことは、同格以上の相手に対しては大変失礼なことであり、その場合、相手は品物を受け取らない・返礼をしないなどの態度で怒りを伝えました。

たとえば、能登の畠山義続は天文22年(1553)、証如に香合と盆、虎皮を贈ったものの、手紙に虎皮を書き忘れていたため、虎皮だけ受け取り拒否されています。

現代では送り状なしの贈り物も受け入れられていますが、戦国時代ではあり得ないことでした。

前回の踏襲が基本

贈り物をするとき、頻度も品物も「前回と同様にすること」が基本でした。たとえば去年お歳暮を贈った人には今年も贈ったり、去年は太刀と馬だったから今年も太刀と馬を贈ったり、去年はこちらが先に送ったから今年もそうしたり…など、なるべく前回と合わせるのが良いとされました。

一度始まった贈答関係は長期にわたることが多いので、「誰と、どのような関係を結ぶか」は重大な選択でした。とくに戦国大名は経済的に豊かだったので、たとえば貧乏公家の子息の元服お祝いとして下手に多く贈り物をすると、以降も何かにつけて資金援助の要請が来るなんてことも。その辺のさじ加減が腕の見せ所だったようです。

たとえ敵味方に分かれても

戦乱が続いた時代なので、交際をもった相手と敵対することも、知人同士が合戦することもありました。

そうであっても、一度始まった贈答はそのまま続くことが多く、敵対する2勢力双方に陣中見舞いを贈っていたり、対立している相手と平然とお歳暮を贈りあっていたりすることも多くあります。

現代ではなかなか信じられない光景ですが、戦国大名は「それはそれ、これはこれ」と割り切っていました。

コラム:戦国時代のマナー講師・伊勢氏

贈答に関する数多くのマナーや作法は、足利義政期までに京都の将軍周辺で成立したものです。

戦国大名のうち、地方出身だったり身分が低かったりすると、全くマナーを知らないまま贈答に巻き込まれることも。彼らの救世主となった一族が、伊勢氏でした。

伊勢氏は室町将軍の側近で、将軍子息の守役も務めるほどの家柄です。幕府の力が弱まってから、独自に蓄積した礼儀作法の知識を切り売りすることで生き残りをはかりました。

彼らの著作の多くは、現在『群書類従』『続群書類従』などの叢書におさめられ、室町・戦国時代の礼儀作法を現代に伝える貴重な史料となっています。

おわりに

今回は戦国大名の贈り物事情を、贈る時期や品物を中心に概説しました。

現代より頻繁に贈答をする一方で、それぞれのやりとりはむしろビジネスライク。贈り物から彼我の政治的立場をはかったり、貰う前から贈り物の流用先を考えたりしているような扱いでした。

だからこそ、ごくごく稀に届く親切な贈り物が一層身に染みるのでしょう。一見地味に見える贈答ですが、意外と奥深くスリリングなのです。


【主な参考文献】
  • 『大系真宗史料 文書記録編8 天文日記Ⅰ』(法蔵館、2017年)
  • 『大系真宗史料 文書記録編9 天文日記Ⅱ』(法蔵館、2017年)
  • 桜井英治『贈与の歴史学』(中公新書、2011年)
  • 江後迪子『信長のおもてなし』(吉川弘文館、2007年)
  • 盛本昌広『贈答と宴会の中世』(吉川弘文館、2008年)
  • 石田晴男「「天文日記」の音信・贈答・儀礼からみた社会秩序」(『歴史学研究』627号、1991年)
  • 二木謙一「故実家伊勢氏の成立」(『国学院雑誌』68、1967年)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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