江戸における各藩の大使館、または領事館?「藩邸」の意味を解説
- 2022/05/17
江戸時代における「藩」という行政区分は、現在の都道府県とは異なる概念でした。あくまでも歴史用語であり、明治維新まで公称としては用いられなかったとされますが、端的にはひとつの「国」であったといえます。
参勤交代の制度によって、藩主といういわば国家元首みずからの江戸出仕が求められ、そのための在江戸政庁や住居が必要となりました。それを藩邸(はんてい)、あるいは江戸藩邸(えどはんてい)といいます。
先述の通り、藩という呼称自体が江戸期に一般的だったわけではないため、同時代では「江戸屋敷」などが公称でした。今回はそんな「藩邸」について、少し詳しくみてみることにしましょう。
参勤交代の制度によって、藩主といういわば国家元首みずからの江戸出仕が求められ、そのための在江戸政庁や住居が必要となりました。それを藩邸(はんてい)、あるいは江戸藩邸(えどはんてい)といいます。
先述の通り、藩という呼称自体が江戸期に一般的だったわけではないため、同時代では「江戸屋敷」などが公称でした。今回はそんな「藩邸」について、少し詳しくみてみることにしましょう。
藩邸とは
諸国の大名が江戸に駐在するため、幕府から屋敷の用地が与えられました。この用地支給は幕臣である旗本・御家人に対しても行われましたが、歴史用語での藩邸は特に大名家のものを指しています。『国史大辞典』によると、江戸城下の武家地は市街の約68%を占め、明治2年(1869)9月の調査ではおよそ1619万坪に及んだとされています。その面積のうち約半分が、大名の藩邸に相当していました。
その起源は徳川家康の時代にさかのぼり、天正18年(1590)の関東移封に伴って、譜代の家臣向けに江戸の屋敷地を与えています。豊臣秀吉が没した慶長3年(1598)以降には、外様大名にも江戸屋敷地が与えられるようになり、家康への臣従の証としての意味合いも帯びていました。
江戸時代初期には各大名屋敷の位置関係には特段の法則性は認められないとされますが、統治機構の整備とともに徐々に再配置が進んでいきます。江戸時代初めの『寛永江戸図』によると、江戸城内の吹上には尾張・紀伊・水戸のいわゆる「御三家」の屋敷があり、北ノ丸には徳川秀忠三男の徳川忠長(駿河大納言)と親族が配されていました。
また、大手門の外には酒井氏・松平氏・稲葉氏・土井氏などの幕閣要職者や重臣の屋敷を置き、常盤橋門の内側から西ノ丸下にかけて親藩・譜代の大名を配置。そして大名小路と外桜田の方には、有力外様大名を置くという構造でした。
時代が下ると、竜ノ口から西ノ丸周辺には当代の老中や若年寄などの屋敷が置かれ、幕政主導者たちの官邸群ともいえる様相を呈していました。このように江戸城を中心として幕府の中枢に関わる人材が集住する状況が形作られていきましたが、これらはあくまでも私有地ではなく「拝領」という形式でした。
屋敷内の造作・普請は各大名の負担ながら、上記の理由から幕府命令での移転・改築も行われ、時代とともにその配置は変化していきます。
また、藩邸は主用途や江戸城からの距離などによって「上・中・下」の各屋敷に分類されます。絶対的な区分ではありませんが、以下はその概要と目安です。
上屋敷
藩主やその家族が公邸として使用し、江戸の留守居を務めた上級武士なども暮らした藩邸が「上屋敷」です。距離的には江戸城にもっとも近く、各藩の藩主が出仕している時期は在江戸政庁、そうでない時期はいわば大使館や領事館的な役割を果たしたとも言い換えられるでしょう。上屋敷は登城の便に配慮され、江戸城の近くに建てられました。
中屋敷
上屋敷が災害などなんらかの事情で使えなくなったときのための、バックアップ的な施設が「中屋敷」です。
ここは隠居した藩主やその嗣子が住まうこともあり、上屋敷の「控え」として位置付けられていたものです。中屋敷は江戸城外堀の内縁沿いに建てられる傾向がありました。
下屋敷
江戸湾の湊近辺や河岸など、物流拠点や物資が集積される近郊に建てられたのが「下屋敷」です。
郊外であることからも敷地は広大な傾向があり、園地や練兵場などを備えた別邸的な位置付けでもありました。本国からの物資を荷揚げする機能も担っており、江戸との物流をつなぐ経済の窓口でもありました。
京屋敷とは
一方で藩邸、つまり大名屋敷は江戸だけではなく、歴史的に重要な文化の中心地であった京都にも設けられていました。これを「京屋敷」と呼んでいます。江戸における藩邸との違いは、幕府からの拝領地ではないため、税負担などが課されていた点にあります。それに政治的地位が低下していたとはいえ朝廷の本拠地であり、依然としてその権威には一定の配慮がなされていたといいます。
京屋敷では儀式典礼の連絡および工芸品の入手など、文化的側面の強い活動が主な任務となっていました。幕末を舞台にしたメディア作品などで、京都に様々な藩が拠点をもっている描写があるのはこのような背景によるものです。
おわりに
参勤交代という、江戸幕府による特殊な大名統治によって発展した藩邸。各藩にとっては江戸や京における拠点であり、藩主をはじめ出仕の藩士たちにとっては小さな本国ともいえる拠り所であったことでしょう。当時における呼称と歴史用語との違いはありますが、「上屋敷」や「大名屋敷」、または「京屋敷」などの語が出てきたらそれは藩邸のことを意味していると理解できますね!
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『故事類苑』(ジャパンナレッジ版)
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