武士のサラリーはどんな仕組みだった?「扶持」の意味を解説

 かつて、武士の給与が米で支払われていたことはよく知られています。一国の経済力も米の見込み収穫高を基礎とした石高で表され、米は財力を示す指標と位置付けられていました。主君から武士への給与の一種に、「扶持米(ふちまい)」と呼ばれるものがあります。

 現代でも使われる「食い扶持」という言葉の語源となったもので、略して単に「扶持(ふち)」ともいわれます。今回はこの「扶持」の意味に対する解説を中心に、武士の給与体系の一端を概観してみることにしましょう!

扶持とは

 「扶持」とは主君から家臣へと支給される給与の一種で、米をもって充てられたものです。かつて人ひとりが一日に食べる米の量を5合(約0.9リットル)とし、一か月で1斗5升(約27リットル)、一年で1石8斗(約324リットル)が必要と仮定しました。

 当時は精白米ではなく玄米が基準でしたが、米俵に換算すると5俵となり、このように人ひとりが一年間生活するための最低限の支給米単位を「一人扶持(いちにんぶち)」といいました。

 武士の給与としては最小単位であり、下級武士への俸禄として「三両一人扶持」などの言葉が知られています。ただし上級武士にも、職務手当である役料として扶持の単位で給与が加増されることがありました。

武士の給与体系について


 現代社会では年俸・月給・時給等々、さまざまな給与体系がありますが、武士も基本的には年俸制であったといえます。武士の給与支給には、大きく「地方知行(じかたちぎょう)」と「蔵米給与(くらまいきゅうよ)」の方法がありました。

 前者には「知行」という語がある通り、土地を与えてそこからの税収などを給与とするシステムです。武士にとって本来的な報酬の在り方ともいえます。一方、後者の「蔵米」とは、年貢として集められた米のことであり、これを給与として支給することを指す場合もあります。

 江戸時代中期までには諸藩のうち、80%ほどが蔵米給与へとシフトしていたといいますが、一部の旗本・御家人や上級武士のうちには伝統的な知行を受ける者もいました。しかし知行地からの収税率は公定制限があり、その一部が禄米として支給されるなど、知行取りと蔵米取りのハイブリッドといった形態も認められます。

 蔵米はもともと、知行地をもたない層の武士に対する給与という意味合いがあり、会社員にとってのサラリーと同義といって差し支えないでしょう。

 この給与米は、幕府創設当時には米の収穫が終わって年貢の納税が終わった旧暦10月ごろに一括支給されていました。しかし徐々に夏・冬の分割支給となり、享保8年(1723)以降は2月に4分の1、5月に4分の1、10月に残り4分の2が与えられる形式となりました(いずれも旧暦)。

 これをそれぞれ「春借米(はるかしまい)」「夏借米(なつかしまい)」「冬切米(ふゆきりまい)」と呼んでいます。この形式での給与受給者を「切米取(きりまいとり)」といい、春と夏の支給を「借米(かしまい)」というのは、冬の支給を本来として前払いに相当するためです。

 先述の通り、知行取の者でもそのうち一定額は切米として支給され、そうではない者が月給として現物の米を受け取ることを「扶持米取(ふちまいとり)」といいました。これは御用達町人など、武士以外の身分の人々にも適用されたことが知られています。

幕府年貢米の管轄について

 武士などへの給与財源はいうまでもなく税収であった年貢米ですが、これを管理する「御蔵(おくら)」という機関が存在しました。

 元和6年(1620)に江戸浅草御蔵が創設されたことを皮切りに、同時代には大坂御蔵が設置。寛永年間(1624~45)には京都二条御蔵が、享保年間(1716~36)には「難波・天王寺・高槻(現在の大阪府)」、「駿府・清水(現在の静岡県)」、本所(現在の東京都)、大津(現在の滋賀県)、甲府、長崎にそれぞれ御蔵が設置され、米が集められました。

 これら御蔵で扱われた米の総量は約70万石といわれ、特に江戸浅草御蔵は中心的な機関として機能していました。幕府の年貢米は「廩米(りんまい)」といい、浅草御蔵では扶持米・切米以外にも御用米や役料米、あるいは仏供米など幅広い用途の米を取り扱ったことが知られています。

 御蔵には勘定奉行配下の「御蔵奉行」が置かれ、役料200俵という手当てを受けて廩米の出納や管理を担いました。これらの蔵米は、当初は旗本や御家人が直接受領する「直差(じきさし)」という方法で払い出されていました。

 やがて米の受け取りや売却が外部委託されるようになり、この業務を代行したのが有名な「札差(ふださし)」と呼ばれる業者です。このことにより、札差が金融業で莫大な利益を得るようになったのは周知の通りです。

おわりに

 「食い扶持」という言葉に根付いた、「扶持」という武士給与の単位。一日に5合の米という仮定は、朝夕2食だった時代の名残ともいわれています。

 価値基準が米に置かれている点を差し引いても、雇用主から給与を受けるという基本的な部分は現代と変わりがありませんね。もっとも、武士は大身であっても家計が苦しいものが多く、足軽はおろか幕臣でも内職で副収入を得なければならなかったといいます。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『世界大百科事典』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(ジャパンナレッジ版) 小学館

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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