「松平定敬」箱館戦争までを見届けた伊勢桑名藩主!徳川一門の誇りを示した、松平容保の実弟

 「松平」という姓が徳川家に連なる一門や、祖先を同じくする譜代家臣の名乗りであることはよく知られています。少々乱暴なくくりではありますが松平氏といえば徳川将軍家の親戚ということもでき、幕末時点でもこの一族から多くの藩主を輩出しました。

 もちろん養子縁組などで家系図は複雑な形を描きますが、もとをただせばその多くが遠近の血縁で結ばれた同族といえるでしょう。

 松平姓を名乗った幕末の有名人物といえば、会津藩主・松平容保、越前福井藩主・松平慶永(春嶽)などが真っ先に思い浮かぶでしょうか。今回はここにもう一人、松平定敬(まつだいら さだあき)の名を挙げたいと思います。

 定敬は若くして伊勢桑名藩主に就任し、京都所司代を経て函館戦争までを幕府軍として戦った人物で、松平容保の実の弟にあたります。文芸や映像作品などで華々しくスポットライトを当てられるようなイメージはあまりありませんが、まぎれもなく幕末の激動を駆け抜けた「松平」の一人です。そんな松平定敬の生涯について概観してみましょう。

出生~王政復古

 松平定敬は弘化3年(1846)12月2日、美濃高須藩主・松平義建の七男として江戸藩邸で生を受けました。通称は鍥之助、のちに号は晴山を用いています。

 安政6年(1859)9月、桑名藩(現在の三重県桑名市あたり)主・松平定猷(さだみち)が満25歳の若さで死去。定猷の長男はわずか3歳のうえ庶子という立場であったため、定敬が婿養子としてその家督を継ぐことになりました。もっとも当時定敬は満12歳、妻となる初姫は定猷と正室との娘であったものの、まだ3歳という年齢でした。

 桑名11万石の襲封は同年11月のことで、翌万延元年(1860)には溜間詰(たまりのまづめ)に進みました。「溜間」 とは江戸城黒書院に設けられた部屋のことで、親藩および譜代大名のうち、将軍に直接意見具申ができ、ここに座席をもつものを 「溜間詰」 といいました。

 幕政参与の最高機関ともいえ、彦根・会津・高松の松平家は定席とされていました。定敬の桑名松平家は常任ではありませんでしたが、藩主としての格を示すキャリアとして申し付けられたものでしょう。桑名藩主となった定敬は従五位下越中守に叙任されています。

 文久3年(1863)、14代将軍・徳川家茂が上洛の際にはこれに随行。元治元年(1864)4月、定敬は京都所司代の職に任命されます。これは京都の治安維持を任務とするいわば警察のような機関ですが、幕末当時にはその実効力は低下していたともされています。

 代わってより強力にその任を担う上位機関として設置されたのが「京都守護職」でした。これは「見廻組」や「新撰組」などの強力な武装警察を擁し、逮捕権限を行使して不穏分子を摘発したことがよく知られています。この京都守護職を預かったのが、定敬にとって10歳年長の実兄・松平容保でした。

 時期を同じくして一橋慶喜が「禁裏御守衛総督」に任命されており、定敬は朝廷に近い武家勢力で兄弟協力して京の都の治安維持にあたったことがわかります。

 同年7月、禁門の変(蛤御門の変)においては桑名・薩摩藩兵が会津藩兵の救援に向かい、蛤門を攻撃した長州藩兵を撃退。この功績から定敬は9月に孝明天皇より鞍一具を賜り、朝廷守備への謝辞を受けています。

京都御所の御門周辺が激戦地となった禁門の変
京都御所の御門周辺が激戦地となった禁門の変(出所:wikipedia

 また同年3月に挙兵し、11月に上洛作戦を開始した水戸天狗党への防備としても出兵。第二次長州征討軍の解兵奏請は慶応3年(1867)1月、兄・容保の依頼拒否により代わって定敬が行っています。しかし同年12月の王政復古により定敬は京都所司代の職を解かれ、慶喜・容保らとともに大坂城へと下りました。

鳥羽・伏見の戦い~函館戦争

 明治元年(1868)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗走、官位を剥奪された定敬らは「朝敵」として位置付けられてしまいます。

 慶喜に従って海路江戸へと戻った定敬でしたが、兄・容保とともに徹底抗戦を主張したといいます。しかし慶喜はこれを容れず、江戸・霊厳寺において謹慎することになりました。

 その頃桑名本国では家老たちが先代藩主の遺児であるのちの「松平定教」を擁し、新政府への恭順を決定していました。

 新政府は朝敵を5つの等級に分類しており、第1等が徳川慶喜、第2等が松平容保と定敬でした。このことから国許では定敬の帰藩を受け入れがたい状況であり、藩主でありながら自身の国へ帰ることができないという苦しい状況になっていいました。

 同年3月、定敬は江戸無血開城の立役者でもある「大久保一翁」の進言を受け、桑名藩の飛び地があった越後柏崎(現在の新潟県柏崎市)への移転を決意。プロシア船で横浜を出港し柏崎へと至り、近傍での戦闘によりさらに会津へと移動して兄・容保と再会を果たします。しかし8月には会津城下で戦闘となり、転進した米沢も翌月に降伏。福島を経由して仙台へと至った定敬は、そこで「榎本武揚」率いる旧幕府艦隊と合流します。

 当時仙台藩はすでに新政府に恭順の意向を示していたため城下に入ることはできませんでしたが、偶然にも松島湾に停泊していた艦に座乗してそのまま箱館へと向かったといいます。

 箱館戦争で定敬は特段の役職に就いていませんが、これは武揚ら旧臣にとって主家の将なき戦での心遣いだったとも考えられます。自ら前線を渡り歩いた定敬はこの時を英語の学習にあてたとされ、来るべき新時代で必要となるスキルを正確に見通していたともいえるでしょう。

 しかし明治2年(1869)元旦、桑名本国から家老の「酒井孫八郎」が定敬のもとを訪れます。桑名から実に2か月近くもの過酷な旅を経て、新政府への降伏を説得しに来たのです。当時満23歳というこの若き家老は、その後新政府に働きかけて定敬の赦免と桑名藩再興に尽力した人物です。

 同年4月、定敬は孫八郎の説得を受け入れアメリカ船で上海を経由して5月に横浜に到着。ここで正式に降伏し東京・名古屋藩邸で謹慎となりました。函館戦争終結の直前であり、徳川一門としては最後まで新政府に抵抗した人物だったといえるでしょう。

函館戦争中の松平定敬の肖像
函館戦争中の松平定敬の肖像(出所:wikipedia

戦後~最期

 同年8月に定敬は津藩に永預かりとなりましたが、特例として養子(先代藩主の遺児)・定教が6万石に減封された桑名を継ぐことを許可されます。明治4年(1871)3月に定敬の身柄は桑名の預かりとなり、翌年1月に正式に赦免となりました。

 定敬は幼くして許嫁となった先代藩主の遺児・初姫(初子)と正式に結婚し、平民となる願いは却下されたものの11月には欧州視察旅行に出立しました。

 定敬が英語教育を重視したことは箱館戦争時の学習からもうかがえ、明治6年(1873)にはアメリカ人宣教師・ブラウンが横浜に設立した「修文館」に入学。定敬は翌年の11月に渡米しています。

 明治10年(1877)に西南戦争が勃発すると、定敬は旧桑名藩士の隊を率いてこれに参戦。同年12月には正五位に昇叙されました。

 明治27年(1894)には兄・容保の跡を継いで日光東照宮の宮司を2年間務め、明治41年(1908)7月21日に満61歳の生涯を閉じました。その魂は、東京都豊島区の染井墓地に眠っています。

逝去の前日には従二位に昇叙されており、これは歴代桑名藩主のうち最高位であることが知られています。

おわりに

 戊辰戦争で新政府軍と戦ったのは、旧幕臣を中心とした勢力でした。徳川慶喜が早期に恭順を示したため主なき戦とのイメージも根強いようですが、定敬は終焉直前までをその目で見届けたといえるでしょう。そこには「松平」の名を継ぐ徳川一門としての、激しい矜持が秘められていたように思えてなりませんね。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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