戦国時代における「分国法」とは?登場した時代背景や存在意義について徹底解説!

桜ぴょん吉
 2021/08/25

巻物のイラスト

戦国大名の業績といえば、まず一番には合戦での功績が思い浮かびますが、領国の統治もあげられます。治水や農業振興、経済政策のほかに、「分国法(ぶんこくほう)」と呼ばれる独自の法を定める大名家もありました。

分国法とは、戦国大名が自分の領国の統治や、家臣団の統制のために公布した法令で、「戦国家法」ともいいます。その性質も校是や社是のようなものから、「喧嘩両成敗」を定めるなど、罰則付きの裁判基準を示すものなど様々です。

今回はその中でも特に「争い」を裁く分国法に注目して、制定の背景を解説するとともに、室町・戦国時代のカオスな日常をご紹介したいと思います。

分国法以前:争いが起こったらどうしていた?

武力を持つ庶民

時代劇や大河ドラマでは、室町・戦国時代の庶民を丸腰で無力な存在に描くこともあります。しかし、豊臣秀吉が「刀狩」を出していることや、そもそも戦国大名の軍は大半が農民を招集していることから分かるように、当時の庶民(とくに成人男性)は兵士でもありました。

加えて、当時は現在のような警察も消防もありません。村に野生動物が出たら村人たちが退治に行ったし、町で強盗が起これば町人たちが見回りや犯人逮捕をしていました。

当然のように、村や町は武器として刀や槍、弓矢、場合によっては鉄砲まで持っており、使い方も習熟していたと考えられます。戦国大名が統治していたのも、そのような男たちでした。

プライドが高い室町人

更に手に負えないことに、室町・戦国時代の人々は、プライドが少しでも傷つけられると命をかけて相手に抗議をする性質がありました。

少し古い例ですが応永31(1424)年の奈良で祭礼があったとき、ある田舎者が遊女に笑われたことに逆上して遊女以下数人を惨殺、自分も自害しています。また永享11(1439)年の尾張国では、寺の参詣に来た侍が、たまたま門前で行き会った別の侍に対し、挨拶が気に入らぬと言って喧嘩になり、双方刺し違えて死ぬ事件も発生しています。

個人ですらこの調子ですから、これが村や寺、家の名誉にかかわる問題だと更に激しくなり、双方仲間を集めた戦闘になることもありました。

被害が釣り合うまで続く戦い

争いごとが起きた場合、彼らは双方納得のいくところで手を引いていました。

具体的には、双方の被害(怪我人など)や負担(失う土地など)がだいたい釣り合った時点で手打ちとすることが多かったようです。争いの収束のために、被害が少ない側が味方を何人か処刑して調整するなんてこともありました。

これでは確かに争いは収束しますが、各々の勝手な判断のもとで争っているので、家中や領国の統制という面から見ると課題が残る状態でした。

主な分国法

 新たに領主となった戦国大名たちは、上記のような争いに介入することで、権力者として存在感を増してゆきました。

また家臣統制の面でも、個人的な争いは制限する必要がありました。かといって恣意的に裁くのでは新たな争いの火種になります。そこで「分国法」を定めて裁判基準を明示する家が出てきました。

※参考:清水『戦国大名と分国法』
本拠地大名法典名制定年
越前朝倉孝景朝倉孝景条々文明3(1471)~文明13(1481)
肥後相良為続・長毎・晴広相良氏法度明応2(1493)~天文24(1555)
周防大内氏大内氏掟書明応4(1495)頃
伊豆伊勢宗瑞早雲寺殿二十一箇条16世紀初め
駿河今川氏親・義元今川かな目録大永6(1526)・天文22(1553)
陸奥伊達稙宗塵芥集(じんかいしゅう)天文5(1536)
甲斐武田晴信甲州法度之次第天文16(1547)・天文23(1554)
下総結城政勝結城氏新法度弘治2(1556)
近江六角承禎・義治六角氏式目永禄10(1567)
阿波三好長治新加制式永禄5(1562)~元亀4(1573)
土佐長宗我部元親長宗我部氏掟書文禄5(1596)

分国法のポイント

力での解決から裁判へ

分国法の中には、私闘の禁止を明記したものが多くあります。

たとえば下総国の戦国大名・結城政勝が定めた『結城氏新法度』の前文や第3条~第5条には、当時の結城家で家臣たちが簡単に喧嘩を始め、しょっちゅう徒党をくんでの小競り合いになっていたことと共に、私闘の禁止を明記しています。

同時に、争いが起こった場合は自力で解決せず、必ず大名に訴え出ることを命じています。また、訴え出たことでその後の裁判が有利になることもありました。

今川家の『今川かな目録』第8条は、喧嘩両成敗を定める一方で、喧嘩を吹っ掛けられても応戦せず、今川家にきちんと訴え出た場合は、その功績を評価して無罪にするとまで定めています。

分国法には、力で問題解決する慣習を、大名権力のもとでの裁判に転換させようという意思がみてとれます。

既存の慣習を吸収・追認

分国法にはまた、既存の慣習を改めて明文化した箇所もあります。

たとえば何か犯罪の訴えがあった場合、江戸時代では町奉行所や公権力が犯罪捜査から行います。ですが戦国時代は、大名に対し「確かに犯罪です」という物証・証人をそろえて訴え出ないと受理されなかったのです。

伊達家の『塵芥集』第41条には、争いごとの裁判を行うとき、物証がない場合は、証人を自分で連れてくる必要があると定めています。『塵芥集』の他の条文によると、証人は犯罪組織の一員であることが多く、捕縛して法定まで連れてくるだけでも様々なトラブルが発生したようです。この点は、室町・戦国時代の「争いの自己解決」という慣習を一部踏襲しているものとみなされています。

また争いの裁定基準についても、双方の負担を同程度にするという従来の発想に基づいたものが見られます。『今川かな目録』第3条では土地の境界争いは基本的に係争地の中間地点を境界とするよう定めています。

分国法も全く新しい規定ばかりではなく、従来の考えを踏襲したもの・追認したものも多く含まれていました。

戦国大名としての自負

厳しい分国法を定めた戦国大名ですが、その背景には、戦国大名が自ら領国を支配しているという自負がありました。

『今川かな目録』第20条には、かつては将軍の力で統治していたものが、「只今ハをしなへて自分の以力量、国の法度を申付、静謐する事なれは」(現在は今川氏の力量で領国を統治しているので)との記載があります。

これは室町幕府に頼らずに独力で統治を実現しているという自信の表れと読めます。分国法はその点で、幕府からの独立宣言=戦国大名宣言でもあったわけです。

コラム:分国法のコピペ元

分国法は、大名や家臣たちが起草したものもありますが、そもそも教養レベルが高くない戦国大名も多いため、既存の法律の切り貼りや改変で済ませた箇所も多々ありました。

コピペ元の代表は鎌倉時代の武家法『御成敗式目』です。たいていの分国法はこの法律を参照し、何らかの形で取り入れています。

ただ中には写し違いや誤解もありました。たとえば『塵芥集』第134条では条文の解釈ミスのため厳罰化している(元は「争っている土地相応の領地を没収」なのが「双方の所領全てを没収」になる)し、第40条は殴打の罪について『御成敗式目』を丸写しする一方、第38条・39条の刃傷の罪については自分の言葉で書いており、表現や罰則のバランスがとれていないなど、なかなか法律制定は難しかったようです。

まとめ:そして江戸時代へ

今回は「争い」に関する分国法を見てきました。争いを自己解決することが一般的だった社会に、戦国大名が裁判長となり秩序だった解決を目指す分国法は画期的でした。

しかし実態は、自己解決の慣習をかなり含んでいたり、大名が出陣すると裁判が停滞してしまったりなど、過渡期の未熟さを残していました。現代人が想像するような「法律」ができるのは、泰平の世となった江戸時代を待つ必要がありました。

分国法には、他にも家訓的な内容のものもあります。現存する全ての分国法の原文は『中世法制史料集 武家家法Ⅲ』におさめられています。現代語訳が出版されている物もあるので、興味がある方はぜひ読んでみてください。


【主な参考文献】
  • 佐藤進一・池内義資・百瀬今朝雄編『中世法制史料集 武家法Ⅲ』(岩波書店、1978年)
  • 藤木久志『戦国の作法』(平凡社、1987年)
  • 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(吉川弘文館、2006年)
  • 清水克行『戦国大名と分国法』(岩波書店、2018年)

  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武 ...

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